卒業式 ②

 思えば三年前にも、似たようなことを書いた気がする。

 

 例のウイルスが流行をはじめて一年ほどが経った時期であった。いまとそう変わらないはずの脅威にみなが怯えていたあのころ、用もないのにわざわざ大学に通っていたやつなんてだれもいなかった。用があるひとはそれでも行っていたらしいが、理論系の人間がディスカッションをしに行く、なんていうのを、あのころの世間は用事だとみなしていなかった。

 

 もっとも、すべてを世間のせいにするつもりはない。まず第一に、そうでなくとも強制されなければわざわざ大学になんて行っていなかったのだし、それにこんなことでわざわざ被害者面はしたくない。とはいえ世間の影響をわたしたちがまったく受けなかったかというとそういうわけもなく、週に合計二回のセミナーがオンラインになった結果、学生たちは互いに顔を合わせなくなった。

 

 そのことが指すものの全景を、当時のわたしが正確に予測できていたのかは分からない。どちらにせよ、のちに理解することにはなるのだからどうでもよい。とにかく卒業式の性質という観点に限った話をすれば、会わなくなったという事実はその式典を、その名前から想起するものとはまったく違うものに変えていた。

 

 変えていたのだと思う。たぶん。たぶんと言ってはぐらかすのはあくまで、そう理解していたわたしが当時のわたしがわざわざ式に行こうとしなかったせいで、正確なところは分からないからである。分からないが、たぶん変えていたのだろうと思う。

 

 似たようなことが今回も起こった。まったく予測可能なかたちで、起こるべくして起こった。

 

 卒業式といえば別れの儀式である。これまで当たり前のように存在していた関係性がその時期を境にまったく希薄になってしまうという、頭では分かっているがなかなか実感できない事実を、生徒たちの心に刻み込んで区切りをつけさせようとする会である。卒業式が実際になにかを変えることはない――本物の実感は式典ではなく、実際の新生活によってのみもたらされるものである――にしても、わたしたちはとにかくそのイベントに、別れが来たのだという理解を紐づける。卒業式にまつわるすべての行為は、そういうアイコンの構成要素である。

 

 そしてこれが別れではない場合――すなわち、関係がその後も変わらずに続くか、あるいはわたしがちょうど体験したように、すでに存在しなかった場合、ひとはこの儀式に、単に自分の身分が書類上変化するという以上のなにごとも感ずることはできないのである。