なぜ三角関数を殺してはいけないのか ②

かくして三角関数を学ばせねばならぬ理由は、論理ではなく倫理の領域に根差している。問いとしての陳腐さがそうさせるのだ。留保なしにひとを殺してはいけない理由を説明できないのと同じように、嫌がる生徒に数学を教えねばならぬ理由など論理的にはどこにもないのだが、それでもやはり、数学は教えねばならぬと決まっている。決まっているのだから、それが正しいのだ。

 

この構図はある意味で、きわめて非科学的な宗教の戒律に等しい――守られるべき明確な理屈などどこにも存在しないとみな知っているが、それでもなお、守るべき重要なルール。必要な議論は存在しないか、存在したとしてもすでに完遂されている。そして終わったはずの議論をわざわざ蒸し返すのは、とても人倫にもとる態度とは呼べない。

 

もっとも、殺人と不勉強には共通しない点もある。無条件の殺人を是とする良き社会とはなかなかに想像の難しいものだが、反面、高校生が三角関数を学ばない社会は想像可能……そして、創造可能だ。日本であれば、文部科学省の役人を説得して、高校のカリキュラムを変更させるだけでいい――それらの手続きはすべて、実際に行うのはそれなりに難しいにせよ、結局はわれわれの想像の範囲内の、自明で地道な手続きの繰り返しに過ぎない。

 

論理的でかつ、現代人類の論理性に多大なる信頼を寄せるひとびとは、こんなふうに考える。「近年の人類の進歩は、つねに悪しき旧弊の排除とともにあった。であれば今こそ、三角関数の学習という遅れた伝統的倫理観を啓蒙の光のもとへとさらけ出し、論理性の不在をもってこの世から叩き出すときではなかろうか?」と。殺人の場合は、これほどまでにそれらしく聞こえることはない。実際に三角関数の部分をそっくりそのまま「殺人の禁止」に置き換えてみれば、彼は単なる残念な自称識者から、狂気の無政府主義者へと早変わりだ。しかしながら、論理の領域をとうに離れた問題に論理を持ち出そうとする愚行であるという一点においては、三角関数と殺人はやはりまったく同一の問題なのだ。

 

さて。識者を自称しないだけの分別のあるわたしたちは、この手の問題とどう付き合っていけばいいのか。

 

これまでの話を踏まえれば、成立する反応はひとつだけである。すなわち論理など無視して、単に議論に参加しないことだ。それでもなお、なぜ三角関数が必要なのかと執拗に求められたのなら、こう言ってやるのが「正しい」――「黙れ」、と。そしてそれは、あくまで論理的に正しい返答だ。しかるに正当ではあるが、まったく正着ではない。

 

では正着とはなにか。それに関しては、残念ながら答えられそうにもない。そんなものがもしあるのならば、誰も三角関数を学ぶ意義を問うたりはしないはずなのだ――もしくは、人を殺してはいけない、その理由を。