自分語り語り ①

 自分語りが過ぎたようだ。日記をはじめたとき、なるべくそういうことはしないようにしようと決めていた覚えがあるのだが、耐えきれなかったようだ。

 

 そう決めたのには理由がある。すくなくとも、あったと記憶している。もうすこし正確に言えば、ことばにすらしていないせいでとっくに忘れ去っている当時の考えを、いまのわたしが納得するかたちで再現している。平たく言えば、記憶が美化されたり、前後関係を混同したり、曲解が頭の中でいつのまにか正史になったりしている可能性がある。

 

 理由、と言うのも不正確かもしれない。すくなくとも、なにかの確固たる信念に基づくものではない。それは日記をよりよい方向に向かわせるための工夫というよりは、日記というモンスターに対処するためのライフハックと言ったほうがただしく、どちらかといえば、わたしの恐怖にもとづくものである。そういう部分をむやみにあけっぴろげにするのは好きではない。好きではないが嫌いでもない。

 

 たいしたことではない。すくなくとも、こうやって長いこと前置きをして語らないといけないようなことではない。というかむしろ逆で、これほど長い前置きのあとではハードルが上がってしまい、むしろ書きにくくなる部類のことだ。綿密な計画にもとづかないものがつねにそうあるように、である。

 

 これ以上だらだらと書いても仕方がないから、もう明かしてしまおう。ダサいからだ。

 

 わたしがこんな人間である、ということは通常、声高に主張しなければならないことではない。初対面の相手には言わねばならぬこともあるだろうが、ある程度以上の関係のある相手ならそういうことは、言わずとも分かってくれるからだ。そしてここの読者としてわたしが想定している層は、たとえ存在するとして、初対面ではない。

 

 月並みな言いかたをしよう。人間の本性とはむしろ、言わずとも理解される、あるいは理解されてしまう部分のほうによくあらわれる。わたしはこんな人間ですと言って本人が提示するものが示すのは、そのひとが自分をどのように客観視する人間であるかということであって、そのひと自身ではない。

 

 そんなことだから、わたしはわたしを語るとき、わたしそのものを語れるわけではない。極端な言いかたをすれば、わたしは嘘を語ることになる。

 

 その嘘は、ダサい。現実のわたしと乖離していればいるほど、ダサくなる。どうしてダサいと思うのかはうまく説明できないが、そもそもダサいという感性に理由は必要ない。ダサいという表現はつねに、理由の説明できない不快感につけられる名前である。