辞める理由

 この日記はあと四十日ほどで終わる。このことは定期的に宣言しておかねばなるまい。

 

 なぜ終わるのかといえば理由はない。いや、理由と呼べるものはいくつかあるし、それを理路整然と説明することもできるのだが、そうする必要を感じていない。この場所はわたしがわたしのためだけに設けた場所であり、したがってこの習慣をやめるということについて、わたし以外の人間を納得させるだけの理由を挙げる必要はない。

 

 わたし自身はこの決断を納得している。言語化こそしていないが、言語化する必要を感じないくらいには納得している。というか最初から、いつやめてもいいとは思っていた。

 

 日記をはじめたときのことを思い出す。

 

 たいていのことは三日坊主だった。三日坊主だろうと自嘲して、三日も続かないこともあった。そのことを気に病むほどすでにわたしは若くなかったが、新しい習慣などというものが長続きするなんてそんなことがあるわけがない、と簡単に決めつけるくらいには、青臭いニヒリズムにはまっていた。

 

 たいていが三日坊主に終わるのはわたしに限らずほとんどのひとの性質である、ということを理解していたかどうかは忘れてしまったが、すくなくとも、いまほどはっきりと主張できるほどの確信はなかった。

 

 わたしのニヒルはほどなくして裏切られることになる。もちろん、日記が続いたからである。三日坊主に終わるだろうという書き出しで始めたはずのこの日記は、二週間で一度書くことが尽きたが、その後もずっと続いた。半年くらい続いたところで、わたしは世の摂理に反してこれが続いているという事実と、真剣に向き合わなければならなくなった。

 

 日記が続くということを理解してしまったあとは、むしろやめることが難しくなった。

 

 何度も書いていることだが、わたしに初心はもうない。日記を始めたころのわたしのなかで悶えていた、とにかく考えたことをことばにしたい、書きつける先が欲しいという感情は、毎日の執筆というじゅうぶんすぎるはけ口を見つけたせいで、すっかり収まってしまった。一年半が経つと、わたしはもう、書くために無理やり考えているという状態になった。

 

 月並みな表現は嫌いだが、わたしはやめどきを失っていた。そんななかで就職とは、忙しくなるという言い訳を提供してくれる節目だという意味で、またとない最高のタイミングなような気がした。

 

 しいて言えばそれが、日記をやめる真の理由である。ほかに理由はない。ちょうど、続ける理由がないのと同じように、である。