長文

 昨日の日記では、博士論文は長すぎて手に負えないという話をした。全体を一貫してつらぬくストーリーが必要になるけれど、長すぎると一度に全体を把握しきれないから、書いているときも、自分がなにをしようとしているのかよく分からなくなるのだ。長い文章を書くとはそういうことであり、そしてこうやって毎日書き捨ての文章を書いていたところで、そのための能力はけっして身につかないから、困ったものである。

 

 とはいえそうなるのは仕方のないことである。なにも、わたしの認識能力不足を正当化しているわけでも、そのための訓練を怠ってきたことに対する言い訳をしようとしているわけではない。長い文章の構成を理解するという点においてきっと、人間の脳にはもともと認知の限界があり、わたしがぶち当たっているのはその壁なのだ。本質的に難しいことができなかったり、時間がかかったりするのは当たり前である。

 

 この日記を続けてきたおかげか、わたしには短い文章をすばやく書く力がある。もちろんわたしよりそれが上手な人間はいくらでもいるが、書くという習慣のないひとまですべて含めれば、かなり上位に入るとは思う。読解力はそれにはやや劣るがまあないわけではなく、数学をやっている以上、短い文章の中の論理のつながりを文レベルで把握するという作業はきっと得意である。

 

 長い文章を読むということに関しては、わたしはきっと人並みである。スピードという面ではおそらく、むしろ遅いほうだろう。文庫本一冊を一日で読み終えることはなく、電子書籍のアプリが「あと一時間で読み終わります」と言ってきた場合、たいてい二時間はかかる。わたしのなかでは自分はつねに精読をしているのだということになっており、それなりに細かい部分の表現にまで気を使っている気でいるが、ほかのひとと比較したわけではないのでわからない。

 

 そして長い文章を書くということに関して、わたしは完全に素人である。なにもわたしだけが素人であるわけではなく、世のほとんどの人間は、大学で課される数千文字のレポート以上のものを書いたことはないのではないか。何年にもわたって何百万字もの連載を続けるネット小説家とは非常に稀有な存在であって、すくなくともわたしは、あのひとたちの真似をできる気はしない。

 

 というわけで。長い文章を書こうとしてその全体像を把握できないというのはおそらく、とくに恥ずべきことではない。恥じなかったからといって書けるようにはもちろんならないのだが、博士論文をわたしが思い通りに進められなかったところで、わたしにはきっと開き直る権利がある。