研究の競技性 ①

この日記に記される研究に関する話題と言えば、そろいもそろって否定的なことばかりだ。これではまるでわたしが研究を心底嫌っているみたいに見えるが、決してそういうことはない。研究のある側面はたしかに嫌いだが、全体として見れば、それなりに楽しいことであることは間違いないのだ。

 

もっとも、楽しいこととそう書くこととは違う。執筆という行為が老廃物を吐き出す活動である以上、書く内容は必然的に、愉悦よりも文句の優先順位のほうが高くなる。だから傍から見れば、なにかを書くひとはよりつぶさに、世界のすべてを憎んでいるように見えるのだ。その裏にある素朴な喜びが、めったに外部にまで漏れ出てこないばかりに、わたしたちを見たひとたちはこう思うのである。そんなに嫌なら、なんでさっさとやめてしまわないのか、と。

 

さて。会社で働いているひとが仕事の愚痴をこぼすことがいたって健全ないとなみであるのと同じように、博士課程の学生が研究に文句を言うのも、きわめて自然なことであるには違いない。だからわたしはこの日記が――文句だけを書き続けるスタイルが――、そう悪いことだとは思わない。しかしながら、学生には固有の事情がある。生きるための金を稼がなければならない労働者と違って、わたしたちは意志さえあれば、この研究という道楽を簡単に辞められるのだ。だからして、やめちまえ、の声を、わたしたちはそう無碍にもできないのである。

 

だから。今日はすこし趣向を変えて、研究の世界がどのようであれば楽しいのか、という話でもしてみよう。これならば見たひとはきっと、愚痴ではなく想像力の領域の話をしていると思ってくれるだろう。

 

どのような世界ならより楽しいのか。思うに、それを探る鍵は過去にあるように思える。研究の道を志した当時の、比較すれば純朴だった頃のわたしのなかに。

 

それは計算するに、四年ほど前のことだったように思う。

 

それまでのわたしは、勝ち負けのある世界に身を置き続けてきた。つねに勝利を至上命題としていたわけではなかったから、勝負の世界に生きた人間だ、と胸を張って言うのはすこし、おこがましいかもしれない。だがすくなくとも勝ち負けという概念は、つねにわたしの身近にあり続けていたのだ。

 

だからわたしが、研究に競技性を求めたのは必然だった。それもそのはず、競技とみなすことのできぬ何かに関しては、どう頑張ったらいいのかまるで分からない。ゴールを定めようにも、分野の発展とかいった数値化不能なゴールは、まったくゴールにはなりえない。そのようにして、ある意味では消極的に、わたしは研究を競技とみなした。

 

一面的な世界観に過ぎないことは認めよう。だが考えるほどに、それは無視できない一面であることも分かってくる。それもそのはず、研究とはけっこう、競技なのである。