継続は可能なり

どうやらこの日記も、はじめて一年が経過したようだ。

 

わたしがこれほどの期間、一日の休みもなく更新し続けられる人間だとは思わなかった……のはもう、過去の話だ。幾度もの振り返りを通じて、そういう文言はもうキーボードの刻印が擦り切れるほど打ち込んでいるから、今更取り立てて感慨を覚えたりはしない。ひとは同じことに何度も感動できるようにはできていないのだ。

 

覚えるとすればむしろ、紋切り型の表現に対する抵抗感である。「続けられる人間だとは思わなかった」と書くのは、あくまでそれが定型文だからだ。わたしが実際に思った……いや、思わなかったことではない。だから、書くべきではない。定型的な解像度の低い表現でものごとを規定するのが、わたしはむしろ大嫌いだ。日頃からこの日記を読んでくれているひとなら、分かってくれていると思う。

 

さて。

 

過去のわたしが、続けられない人間であったことは事実だ。中学生か高校生のある日、わたしは英語で日記をつけようと思い立った。そして実際に、一本の英文を書き上げた。内容は覚えていないが、それなりに真剣に書いたことだけは覚えている。

 

そしてそれを、毎日続けようと計画した。どう気が狂ったのかは定かではないがとりあえず、気が狂っていたことだけは確かだ。

 

そんな狂気の中にも、わずかばかりの理性は残っていたようだ。わたしは薄々、三日坊主で終わる試みだと勘づいていた。そもそも当時のわたしには、日記をつける習慣じたいがなかったのだ。明日や明後日はまだ書けるかもしれないが、それ以上に続く理由はない。ましてや、英語で。

 

結果は。その日以降わたしは、英語で日記を書いたことがない。

 

そんなことだからわたしは、何かを継続するという行為はわたしにもっとも不向きなことだと信じて疑ってこなかった。続けられないことを前提に、わたしは計画を立てた。続けることで効果があると言われたことは、なるべく短期間で済ませて、綺麗さっぱり忘れてしまうことにした。そうできないことは単に、なかったことにしてきた。

 

すくなくとも、一年前までは。

 

今思い返せば、わたしにも継続できたことはある。ソーシャルゲームのログインとかだ。とりあえず時間を見つけて、デイリーミッションだけはこなす。これのどこが、続けられない奴の行動なのだろうか?

 

まあ、そろそろ、認識は改められるべきだ。

 

わたしは思ったほど、続けられない人間ではないらしい。

 

日記を書くことを通じて、わたしは自らそう証明した。証明された事実は信じるべきだ。それが自分の先入観と異なるのであれば、より一層。

 

自分は思っていた類の人間ではないと感じさせてくれる経験、自分を糺してくれる経験。そういうものに、目をつぶるのは得策ではない。