境界 ①

 今月が終わると、わたしの身には大きな変化が起こる。個人的な問題だから、わたし以外がその変化をこうむることはないだろうが、わたしには起こる。

 

 わたしと同一のタイミングで類似の経験をするひとはたくさんいるだろう。それは多くの場合わたしの変化と原因を共有しているだろうが、因果関係があるわけではないから、やはりわたしには関係ない。

 

 もちろん、就職である。

 

 日記が終わるという話を長々としてきた。思い返してみれば、まるでそれこそがわたしの人生における決定的な変化の第一候補であるかのような語り口であった。日記をやめるという一大事の前では、学生の身分が終了し労働者の身分を得るという書類上の変化などかすんで見える、という雰囲気であった。もちろん、そんなことはあり得ない。日記を書くわたしは、日記という些事ばかりに意図的に着目して大げさに語ることで、より大きな変化がもたらしうるさまざまなものについて目をつぶる助けとしてきた。

 

 そろそろ、現実を直視してもよかろう。地に足をつけるのは好みではないし、地に足の着いた話をこの日記に持ち込むのはもっと嫌いだが、今回ばかりはそうさせてもらう。

 

 過去のわたしはたしか、記念日というものの空虚さを指摘していた覚えがある。日程に特別な意味を持たせようとしても、それが元来なにもない日にすぎないという厳然たる性質を覆すことはできない、という話だった。だが今回は言い訳をしよう。これは正月とか誕生日とかみたいな人工的な境界ではなく、れっきとした人生の変化点であって、気にならないほうがおかしいものなのだ。

 

 ……もっともこれまで、意図して気にしてこなかったわけだが。

 

 社会人としての抱負なんていうものを語るのが、こういう場合のお約束だろうか。なるほどそういうことはいくらでも言える。

 

 一パーセントの人間が共感して残りの九十九パーセントが反吐を吐く感じの言いかたで良ければ、人間関係を大事にするだとか、社会に価値を創出するだとか、協力して大きなことを成し遂げるだとか、そういうことである。九十九パーセントの人間が、自分がそれに賛同できる人間であると信じたがっているような言いかたをするなら、たくさん金を稼ぐとか、サボれるだけサボるとか、会社の金で美味しいものを食べるだとか。とにかくまあ、そういう建前を設計することはできる。もちろんあくまでそれは、口に出すことが物理的に可能である、という意味に過ぎないわけだが。