引退詐欺

 日記を辞めるとはたしかに言った。だが、この日記を辞めると言ったわけではない。

 

 こう書くと引退詐欺みたいだ。というか、そのものだ。長年作品を作り続けてきた続けてきた作家だとか映画監督だとかの一部が老後にやるあれだ。わたしはなにかを成したわけではないし、そもそも老いたわけでもないから、これは引退詐欺の劣悪な模倣だ。

 

 もっともわたしは、自分がこの日課を続けるとは思っていない。つまり、四月以降もかわらず毎日書き続けるわけではない、という意味だ。たしかにこの日課はもはやわたしの生活の一部であるし、やめるにやめられないとは何度も言ってきたわけだけれど、それはけっして、日記を書かない自分を想像することができないという意味ではない。ある日突然なんの前触れもなくやめる、というのはたしかに難しいかもしれないが、そう前もって強く宣言しておけば、きっぱりとやめられるタイプのものではある。

 

 義務的な執筆から解放された日々とはどういうものか。日記を書かない人間は言うまでもなくその正体を知っている。わたしが日記を書く人間であったのはついこの三年ほどのあいだだけにすぎないから、わたしもたぶん、その正体を知っている。それはもちろん、手放しで素晴らしいものではない。けれど、本来やるべき作業を終えてなおまだやるべき作業がある、という憂鬱さと無縁でいられるという意味で、気楽な状態ではある。

 

 そこでわたしははじめて初心を思い出す。

 

 日課のない気楽さを捨ててまで、わざわざこんなものをはじめたのはなぜだったか。もちろん、書きたいことが溜まっていたからだ。それに加えて少しばかりの下心としての、毎日なにかを書き続ければ文章が上達するのではないか、という期待だ。そのふたつがきっかけであった。

 

 書きたいことは尽き、あらたに増えることもなくなった。なにかを一日中考えてしまい、それをことばにするまでほかのことが手につかなくなる、という困った状況に陥ることも減った。その意味でこの日記という負荷は、人生をまっとうにまわすために必要な負荷であって、実際にその役割を十分に果たしてくれるシステムだった。

 

 もう書きたいことはない。だから日記はその役目を終えた。そういまのところわたしは理解している。そしてその理解は当然、次のようなことを意味している。

 

 日記というはけ口がなくなってしまえばわたしは、またあのころの渇望を取り戻してしまうのではないか。思想を書きつける場所を求めて悶々としていたあの日々に、わたしは戻ってしまうのではないか。

 

 ひとつだけ確かなのは、そうなったら、また書くしかないということだ。