具体への回帰 ➄

 数学的対象に限らず、興味を引いたものごとの性質をつい抽象化して考えようとしてしまう癖はもう、どうやってもなかなか抜けそうにはない。

 

 この癖が結果なのか、それとも原因なのかには議論の余地がある。すなわち、日頃から数学に親しみ、数学をやっている人間に囲まれて生きてきたせいでそのような考えかたが身に染みてしまったのか、あるいはそういう人間だから数学をやっているのかが分からない、という意味である。

 

 これはいわゆる「鶏が先か卵が先か」という形式で抽象化される問いである。そのような一般化を持つ問いに共通して言えることがある。答えの出そうにない二者択一に悩んでもらちが明かないから、はやくやめたほうがいいということである。

 

 というわけでそれは考えないことにする。考えないことにするという結論は、わたしの癖という具体的なものを慣用句へと抽象化し、その抽象のなかだけで導き出された結論である。今回用いた抽象が還ってゆく先はもとの問いであって、また別の具体ではない。すなわち、わざわざ一旦抽象を経由するなどという面倒なことをしなくても、原理上はきっと、結論を出すことができたわけである。

 

 自分史の解釈についてあれこれ悩んでも仕方がない。これもやはり抽象化ではあるが、さきほどのものよりはまだマシな、具体に寄り添った抽象化だと言える。

 

 物語は具体を描くものである。すなわち、具体に寄り添わなければならない。抽象化が可能なのであればできるかぎりそうしたほうがよいという数学者的な態度は、ストーリーテリングの次元では逆に仇となる。「鶏が先か卵が先か」と身も蓋もないことを書くより、実際の問いを詳細に書き並べて教訓についてはほのめかすにとどめておくほうが、物語としての質はよほど高い。

 

 ではどうすれば、そういう物語はできるのだろうか。

 

 数学的態度はもちろん当てにならない。抽象を具体に戻すということを数学者はあまりやらないからだ。数学者以外がそれをするかと言われればたぶんそんなこともない。以下はわたしの頭の中にある「普通の人間」の肖像が実際にそう表現される集団を表していると仮定しての話になるが、普通の人間はきっと、具体をただ具体のまま考える。

 

 となると必然的に、以下の疑問が浮かんでくる。抽象化の先に、戻るべき具体はほんとうに存在するのだろうか。

 

 数学者は具体に戻らない。それは単に、数学者がそうすることに興味を持たないからにすぎないからだとわたしは考えてきた。だがもしその理由のひとつとして、そうしたくてもできないからである、というのがあるのだとしたら。新たな具体を生み出すために一度抽象を経由するという道筋が、ただ回り道なだけではなく、そもそも到達不能な行き止まりだったとしたら。

 

 すくなくともわたしは、物語を描くために必要な知見を、ほとんどなにひとつ得ていないということになる。