安全神話と機能不全

繊細な相手を前にしてなにか一言でも不用意なことを言えば、一発で人生を失うこの世界に、きっとおおくのひとが恐怖を感じている。もう少しおおらかな世の中でもいいのにとは思いつつも、そう具体的に提言することのリスクを恐れて、ひとは不本意ながらみずからの態度をアップデートしてゆく。

 

にもかかわらずこの体制が維持されているのは、人生を失うというイベントが実際にはそうそう起こるものではないからだろう。実際に自分の身に降りかかってくるまで、ひとはリスクをリスクとして認識しない。なんとなく怖いな、とは思っているかもしれない。明日は我が身だも思っているかもしれない。けれどもそれを本当に自分の問題として扱えるのはきっと、すでに人生を失った人間だけなのだろう。

 

そのリスク評価は、ある意味では正しいと言ってもいい。身近に実際に起こらないこととは、要するにあまり起こらないことだ。ものごとに百パーセントの安全がない以上、起こりにくいことを心配しても仕方がない。三十年以内に大地震が起こると言われてからそろそろ三十年が経つし、実際に大地震が起これば対策のいかんによらずわたしたちは一定確率で死ぬわけだけれど、常日頃からそれを心配している人間はそれほどいない。そんなことを心配していては、命より先に精神が擦り切れてしまう。

 

とはいえ。リスク評価とはべつに、わたしたちは安心が欲しい。人生を失うイベントが明日にも自分の身に降りかかるという恐怖がたとえ差し迫った恐怖ではないにせよ、恐怖はやはり恐怖である。百パーセントの安全など存在しないとわたしたちは知ってはいるけれど、それを欲しがるのもまた人情だ。

 

かくしてわたしたちは、物語をつくって縋りつく。百パーセントの安全を提供してくれそうな行動規範を、わたしたちはみずからのうちに設けるのだ。縋るべき物語はひとそれぞれであるとはいえ、社会的な死を防ぐための規範はたいてい、ひとつに決まっている。そう。なにもしないことだ。

 

繊細な相手を前にして、なにもしなければ安全なのか。もちろんそんなわけはなく、おそらく悪意の他者はそこにも加害性を見出してくる。どう振舞ってもアウトという場面は存在し、そこで物語は役に立たない。物語とは、所詮だれかの願望にすぎない。

 

けれども実際にそういうことは起きにくいから、わたしたちが平穏に暮らしているとき、物語こそがもっとも重要な防壁になるのだ。

 

窮屈になってゆく社会に、わたしたちはいつ恐怖を覚えるか。物語が効かなくなったときである。どういう行動が不用意な行為と認定されたとき、わたしたちは身の危険を感じるか。その行動が、なにもしないという行動だったときである。なにもしなければ安全だという神話が脅かされたとき、実際のリスクとは関係なく、ひとは世の中に噛みつくことになる。