具体への回帰 ③

 具体的なものから抽象的な性質を見抜き、それをまた具体に還元する。文章におけるそういう試みに魅力を覚えるのはもしかすると、わたしが数学の人間だからなのかもしれない。

 

 すくなくとも、数学はそういうことを目指している。具体的ななにかに面白い性質を見つけたとき、数学者はそれそのものを愛でるのと同時に、その背後に潜んでいる抽象的ななにかを探そうとするものだ。くだけたことばで言えば、なぜそんなことが成り立つのか、という問いを投げかけるわけである。

 

 その問いに対する正しい答えはもちろん、その具体的な現象の説明ではない。いや、実際に正確な証明を与えるのは必要なことではあるのだが、最終的に目指しているところはもっと先にある。その面白い性質を導き出す、より大きな原理はどこにあるのか。その性質を拡張したものが依然として成り立つのは、どのように一般化された世界なのか。具体への証明の次にかれらが考えることはそれである。したがって逆算すれば、最初の具体的事象への証明にも、ある種の一般化の可能性を秘めたものであることが求められる。

 

 そのような意味で、数学者は抽象的な性質を見抜くプロである。というより、見抜かずにはいられない、といったほうがいいか。とにかく、数学において抽象的であるということはつまり、良いことである。すべての具体は、抽象化が済んだあとで見れば、一般的な定理から導かれる系、すなわち抽象の副産物に過ぎない。

 

 ならば、逆の方向はどうだろうか。抽象から具体を生み出すというステップを、数学はどのように扱うだろうか。

 

 抽象が説明できれば具体も分かる、というのが数学者の広く用いている言い分である。なるほどたしかに、そういう場面は多いのはよく実感するところである。実際、具体的な問題に対する疑問を解決してくれるのはしばしば、その具体に対する考察というより、むしろ抽象的な定理であったりする。どうやって証明するのかはよく分からないが便利で強力なフレームワークに具体的な問題を当てはめ、大定理という牛刀で殴ることによって、わたしたちは日頃、たくさんの問題を解決している。

 

 けれどもそれそのものは、抽象から具体への還元であるとは呼べない。なぜならその具体的ななにかは、あくまで具体を出発点として構築されたものだからだ。真の意味で抽象を具体に還元するとは、抽象的な定理を出発点として具体を構築するたぐいのものでなければならないからだ。