数学に具体的なところから離れさせ、抽象的な概念を扱わせはじめるとき、数学者はきまってこういうことを言う。抽象を考えるのは、それがまた新たな、思いもよらない具体性への知見を与えてくれるからなのだ、と。
なるほど殊勝な心掛けである。ひとつの問題を前にして、かれらはその解決だけではなく、将来にわたって有用になるより普遍的な知見を見出そうとしている。目先の利益だけではなくしっかりと未来を見据えた、すばらしい考えかたであると評価できるだろう。
というのは、もちろん皮肉である。数学者が将来のことを語るのはなにも、そうやって抽象が具体へと還元される将来を本気で目指しているからではない。それはあくまで、自分の行動がなんらかの役に立つ可能性があるという、社会に向けた言い訳に過ぎない。
わたしが見るに、数学者の興味の対象はほとんどの場合、抽象化そのものにある。というのもかれらの主張によれば、それは具体から抽象を経てまた具体へと還るという輪廻の前半部分でしかないわけだが、ならば後半のほうに重きを置いている人間もいるのかと問われれば、そんなひとをわたしはあまり見たことがないのだ。かれらの中に共通して流れているのは具体への回帰ではなく、ほとんど礼賛と呼んでもいいかもしれない抽象化への敬意である。雑に言えば、ものごとは抽象的であればあるほど偉い、と、そういうわけである。
そしてかれらは、こう考えている節がある。抽象こそが世界の真の姿であり、抽象から具体を生み出すステップなんて、抽象があればだれにでもできるのだと。
もちろん現実にはそういうことはない。抽象化に次ぐ抽象化を施されたパッケージが、もはや具体を志向する人間にとって解読不能な暗号と化している姿をわたしはよく目にしている。そこから具体的ななにかを見出そうにも、あまりに世界を小難しく眺めすぎているせいで、なかなかうまくはいかない。
だからもし抽象から具体を生み出したいのであれば、そしてそれがあらたな具体を既存の抽象で説明するという手段によるものでないのだとすれば、わたしたちはまず、具体など簡単に生み出せるだろうという数学者的な価値観から脱却する必要がある。
ではどうやって脱却するか。それが分かれば苦労しないのだが、一応考えてみよう。
抽象を具体に持っていく作業をしているのは数学者ではない。だが、数学者以外のだれがそういうことをしているのかと言われると、それもよく分からない。作家の一部はそうしているかもしれないが、おそらく全員ではない。かれらの多くはただ、直接的に具体を書いているようにわたしには見える。