戒律一、車輪はまず発明すること

数学は、いかにも複雑な学問だ。たとえばひとりの学生が、いまの最先端の研究を追いかけたいとすれば、分野もよるが数年の勉強が必要だ。さらには最近の某予想の証明論文など、理解しようと数年にわたって死闘を繰り広げたプロの数学者が、いまだ成功していなかったりもする。かくして数学の理論とは、先人の歴史のめまいのするような蓄積だ。

 

だがその気の遠くなる複雑さにもかかわらず、原理上、数学の論理は解きほぐすことができる。数学が証明と呼ぶものはすべて、こまかくこまかく分解していけば、いずれは数と集合と、それらをつなぎ合わせる単純な論理の組合せだ。歴史に誠実に言うならば、ある時期の数学者が、そう分解できるものだけを証明と呼ぶことにしたのである。とにかく数学は分解できるようにできていて、この性質をもって公理的だと呼ばれる。

 

さて、以上はあくまで理論的な話だ。じゅうぶんな労力をかければどんな証明も公理へと解きほぐせるだろうが、われわれはそんなことはしない。まず、われわれの時間は有限だから、すべての証明を集合と論理のレベルに解きほぐしている時間はない。かりに時間があったとしても、やはりそんなことはしないだろう。かえって分かりにくくなるだけだからだ。

 

証明をするとき、いつもいちから論理を組み立てるわけにはいかないから、われわれはある便利な道具をつかう。証明を解きほぐしたもののなかにはかならず、いろいろなところに何度も出てくるパーツがあるものだ。こういうものはひとつのパッケージにして、二回目からは解きほぐさずに使ってしまえばよい。こういったマイルストーンは定理とか補題とか言われて、あらゆるところにあらわれてくる。自分でつかう場合のみならず、車輪の再発明を避けるためにも、このマイルストーンは有用だ。

 

さて、数学界隈には不思議な信仰がある。あるいは、戒律とでもいうべきか。ひとつ、定理をつかうなら、その証明を一度はやって、理解してからにせよ。

 

車輪の再発明を推奨するようなものにもかかわらず、この戒律はあらゆるところで効力を発揮する。例えば、ゼミ。教員に「その定理、証明して」と言われたのなら、それはその定理を、より細かいレベルにまで分解して説明せよということだ。先輩に「よくわからないんだけど」と言われたらそれも、証明の論理をもっと原始的なレベルで説明せよという意味だ。そもそも、大学の数学の授業は証明でいっぱいだ――証明によって理解が深まるものだけでなく、適用条件と主張だけ理解していれば問題ないような細かい定理まで、授業はいちいち証明していくことがある。あるいは、証明を知るより、じっさいに一度使ってみる方がはるかに理解しやすい定理さえも。

 

この戒律が数学特有の文化なのかはわからないが、すくなくとも数学界隈が、パッケージ化の恩恵を進んで投げ捨てようとする不思議な集団なことは間違いないだろう。じっさい、ひとが作ったパッケージを無条件で受け入れる界隈だって世の中にはあるし、わたしはそういうひとたちが間違っているとは思わない。だがそれでも、わたしが車輪を再発明しないひとたちの輪に加わることは、とうぶんできなさそうだ。それほどに、わたしは数学界隈と長く付き合いすぎた。