具体への回帰 ②

 物語とはどこまで行っても、具体的な景色を描くものである。だからそのなかに抽象的ななにかを持ち込もうにも、それもまた具体的ななにかを経由して描かなければならない、ということになる。

 

 とはいえ、案ずるより産むが安し、である。ことばで言うほど、具体に抽象を持ち込むのは難しくない。というのも、読者はけっして馬鹿ではないので、抽象を抽象として描かなくても勝手にそれを読みとってくれると期待できるからだ。

 

 もっとも分かりやすい例は、風刺と呼ばれる作品群だろう。風刺作品にもいろいろあるが、そのなかに一貫するルールとして、本当に伝えたいことを直接的に書いてはいけない、というものが挙げられる。間違いなく風刺の作者は、読者に伝えたい明確なメッセージを持っている。そうでなければ風刺とは言えない。だがそれはあくまで、一見して無関係な具体のなかに埋め込まれた抽象として、読者に勝手に読み取ってもらうことを期待して書かれなければならない。

 

 こういう婉曲的な手段を使うのにはもちろん理由がある。一番の理由は、筆者に言い逃れの余地を与えることだ。風刺のなかで書かれているものはあくまで具体的な物語だから、筆者は自身への非難に対し、これはべつになにか特定の思想のもとに書かれたものではありませんよ、そんなものにメッセージを読み取ってしまうほうがおかしいのではないですか、というようなことを言って切り抜けることができるわけだ。そしてその言い逃れの可能性には、その風刺の明白さ――すなわち、作品のなかに込められた真の意図が、まともな感性をした読者にとってどれほど自明に理解できるものであるか――は、まったく関係ない。

 

 もちろんその言い訳は、為政者による検閲をはじめとしたほんもののピンチにその風刺が陥ったとき、作者の身を救ってくれるものであるとは限らない。とはいえそれでも死に際に、それを風刺だと理解するということは身に覚えがあるんだな、というメッセージを発するわけである。これは直接的な表現がけっして生み出し得ない効果なわけで、とどのつまり、読者の読解力に期待するという回りくどい手段が表現上の効果を生み出している好例だということになる。

 

 ならば風刺を書いてみよう。そんなに面白いことができる技術は、身につけるに越したことがない。メタなことを言えば、わたしはいま抽象的な話をしているわけだが、これをどうにかして、具体的な物語に落とし込めないか。いや、これそのものでなくてもなにか、普段わたしが描いている抽象的なことを、ストーリーに仕立て上げることはできないだろうか。