非言語思考 ②

 ひとは言語を使って思考するとはよく言われることだが、こと数学ではときに、頭の中にあるイメージをことばにするということのほうが、なかなか難しい作業になる。

 

 数学の論文を書いたことがあればこれは分かる。証明とはかなり気を使う作業だ。論文は書いたことがなくても、大学で数学の専門教育を受け、教授にみっちりと教え込まれたのならやはり分かる。とはいえ大学の初年次課程とか高校数学とかではたぶん分からない。証明と説明のあいだにある差異に、あのくらいのレベルの社会は寛容だから。

 

 それならこうも考えられるかもしれない。数学ではイメージをことばにするほうが難しいことがあるとしても、それは証明ということばにする場合に限った話である。そして証明が難しいのは当たり前だ。数学的厳密性に極限まで気を使い、定義と性質と定理をきちんと分けて書き、表現と記法と用語の意味を統一たうえで明確に定義し、全体の論理構造が飛躍を含まないようにする、というややこしい作業は、とても個人の脳の中だけで即座できることではないし、ましてやそれを使って思考できるようなものではありえない。

 

 そしてそうではなく、説明という意味でのことばなら――つまり、厳密性を無視して思ったことを思った順に表現することや、数学的事実のではなくそれを導いた人間の取った行動の一覧を並べて書き連ねることなどを「ことばを使う」と呼ぶことが許されるのであれば、やはりわたしたちは、ことばを使って数学を考えているのではないか。すくなくとも、考えることはできるのではないか。

 

 もしかすればそうかもしれない。そしてその「説明」が、他者に通じる表現ではなく、自分だけが納得できる表現のことも含むとすれば、ことばで数学をするハードルはより低くなる。

 

 だがそれでもやはり、わたしはことばとはべつのなにかで数学を考えているような気がしてならない。

 

 どちらかといえばそれは、マッチ棒のパズルを解いているときの頭の動きに近い。

 

 言語とはべつのなにかと言ったが、ではそれはなにか。誤解を恐れずに言うなら、それは図である。紙に書かれた印章か、あるいは脳内に描かれた印象で、後者は前者と比べ、細部のディテールが必要なときにしか生成されないという違いがある。

 

 抽象的なマッチ棒を動かすように、わたしはイメージを動かす。その動作はおそらくイメージだけに依存し、ことばには依存しない。もちろんときおりことばを挟み、どれをどのように動かすのがいいのか(あるいは無駄か)を論理的に推論することはあるが、イメージそのものは断じてことばではない。犬や猫が自分の身体を目的の場所に滑り込ませることができるのと、同じ類の原始的な思考である。