具体への回帰 ①

 よき物語に共通するひとつの条件として、それがその話のなかだけにとどまらない普遍的ななにかを含んでいる、ということが挙げられる。なにかというのは本当にどんなものでもよく、たとえば社会風刺でも人生の教訓でも、あるいは人間という存在をこのように分類しましたというような新たな視点でもいいわけだが、とにかくなにか一般的でいて独自の、話の根底に流れる価値観のようなものが必要だと、わたしは感じている。

 

 もちろん、これじたいは完璧に普遍的な法則ではない。その奥底を探ったところでなんの液体も流れていないけれど、それでもとにかくバカほど面白い、という作品は存在して、よく売れる。わたしはべつに読書の専門家ではないから、そういうものはただ商業的に成功しやすいだけでいい作品ではないのだ、などと上から目線で分かったようなことを言うつもりはない。よく売れている作品はそれゆえにいい作品なのだと考えたほうが、分かりやすいし角も立たない。

 

 とはいえわたしは、根底になんらかの流れを感じられる作品のほうが好みではある。繰り返すがこれは、インスタントな面白さだけを求める世の素人とちがってわたしが高尚な読者だからそういうものを感じ取れる、という高慢な思想によるものではない。これはあくまで、単純なわたしの好みの問題である。物語を読むことを通じて、その奥に宿っている思想のほうを摂取したいというのが、わたしがいつの間にか獲得していた嗜好様式だった。

 

 それを語るにあたってはまず、根底に流れているもの、とここまであいまいな表現でごまかしてきたものに、それなりに正確な定義を与えてやらなければならない。

 

 ひとまず、それは抽象である、と定義しよう。

 

 物語とは具体的なものである。具体的な人物が登場し、世界は具体的に作られており、必要な部分はさらに細部まで、しっかりと設計される。たとえば主人公がペットを飼っていたとして、それが犬でも猫でも鳥でも蛇でも、物語の進行には大きな影響を与えないとしよう。プロット的な観点では、そのペットの正体を設計しなくても話は進む。けれど実際に物語に落とし込むなら、そのどれかに決めなければならない。書きはじめてから、「かれは犬か猫か鳥か蛇かまだ決めていないものを飼っています」、とするわけにはいかないのだ。

 

 そういう意味で、物語にはなかなか抽象的なことが書けない。犬や猫や鳥や蛇を登場させることはできても、「ペット」という概念そのものを登場させることはできない。だからそのなかに抽象性の芽を宿すとは、一見して、けっこう難しいことのように見える。