物語にはない価値

物語の世界へと入り込んでゆくとき、わたしたちはその物語の中で、どのような立ち位置を占めているのだろうか。

 

主人公そのひと、ではおそらくない。わたし自身は物語に登場しないからだ。物語についての決定権は読者にはなく、たとえ主人公の感情に深く共感できたとしても、それだけで自分が主人公であるとは言えないだろう。わたしたちはたしかに、書かれた文字を通じてあらゆることを読み取ることができる。だが、それだけなのだ。物語の流れに関わる決定をしているのは主人公かもしれないし、主人公を取り巻く環境かもしれないし、それを設定している作者かもしれないが、断じて読んでいるときのわたしたちではないわけだ。

 

ほかの登場人物でももちろんない。語りの技法によっては、物語はわたしたちに、物語中での立場を規定してくることもある。いわゆる二人称の語りというやつだ。しかしながらそれとて、本当に読者がその位置にいるとはまた呼べないだろう。「きみはこう思った」と書かれているそのことで、読者は該当する過去を思い出したりはしないからだ。

 

となると、読者のいる場所はひとつしかない。もちろん、傍観者だ。わたしたちは物語全体を眺めることができ、現実の傍観者よろしく特定のキャラクターを贔屓するかもしれないが、物語に直接の影響は及ぼさない。作中のどこかにいながらわたしたちはそのことを知っており、だからこそ物語の結末を、単に野次馬的に楽しむことができるわけだ。

 

そう考えれば、読者は少々冷たいような気もしてくる。作者はキャラクターを生き生きと形作っているのに、わたしたちは彼らに入り込まない。紙面を挟んだ絶対の安全領域にわたしたちはいて、常に主人公を見守りながら、何の助けにもなりやしない。現実にはあり得ない親切さによって主人公たちは感情を開示してくれているのに、わたしたちはあくまで現実世界でそうするように、面倒ごとへの不干渉を決め込んでいる。

 

だが。別の考え方をすれば、それが物語に対する、もっとも真摯な向き合い方かもしれない。なぜなら物語は、あたかも現実かのように扱われているのだから。

 

現実でも物語でも、わたしたちはほかの誰かにはなれない。わたしはわたし自身で、それ以外ではない。現実と物語で異なるのは、わたしたちは現実の登場人物だけれど、物語の登場人物ではないということだけだ。抽象的に言えば、物語とは現実としてありうる世界から、わたし個人の関与するイベントをすべて差し引いてできる世界だ。

 

わたしたちはその意味で、物語を現実だと感じる。だれかが考えていることを記述してくれる、現実にはありえない事件が起きる。物語に特有と思われるそれらが、現実の中の自分に関係のない部分で起こっていたとすれば、それは物語と同じように面白い。逆に言えば、現実に起こって面白い出来事は、それが自分の身に降りかかるものでない限り、物語でも面白いはずだ。

 

さすれば現実の唯一の価値は、そこに自分がいるということにある。自分が関与したなにかの面白さ、その輪の中にいなければ面白くないなにかだけは、きっと物語に記述しにくいだろう。現実のその特徴の価値が物語の持つ自由度を上回るほどのものなのかは、わたしにはわからない。しかしながら、現実に物語との違いを見出すことができるというのもまた、事実ではあるはずだ。