アイデアとはつねに……

「アイデアはつねに個人の頭の中に宿る」、ということばがある。

 

誰のことばかは忘れてしまった。たしか外国の数学者のものだったはずだが、確証はない。何度か出典を調べてみてはいるけれど、どうにも見つからずに困っている。いいことばだと思うから、座右の銘だと言い切りたいけれど、出所が不確かな以上、どうしても歯切れが悪くなる。

 

まあ、それはいいとして。このことばの意味するところは以下のようなところだと、わたしは踏んでいる。

 

他人のつながりの中に、ひとは発想の種を求めがちだ。個人ではけっして思いつけないようなことでも、だれかと一時間話し合うだけでたちまち形をなすかもしれないと、わたしたちは期待する。だがそれは幻想に過ぎない。他人と話し合ったことでなにかが生まれたとすれば、それはもともと自分の頭の中にあった観念が、分かりやすいかたちに整理されただけに過ぎない。

 

一足す一は最大でも二である。けっして三や、それ以上にはならない。ゼロとゼロを足してなにかが生まれると期待するなどもってのほかだ。そういう訓戒を、このことばはわたしに与えてくれる。

 

さて。このことばの中身に新たな解釈をくれる出来事が、つい最近あった。最新のチャット AI に、小説を書かせて遊んでいたときのことである。

 

小説を書きたいと思い始めてはや数年。文章の練習こそこうやって続けているが、肝心の中身のほうは、なかなか思いつかない。プロットを書こうにも、物語が動かせない。最初の設定から当たり前に導かれるだろう結末から、もっとも陳腐で意外性のない結論から、一歩たりとも逃れられない日々。

 

ふと思い立ってわたしは、過去に考えた世界設定のひとつを AI に投げつけてみた。「こんな世界で、こんな立場にいる主人公の身に何かが起こる物語を作ってください」。きわめて抽象的で、行先も分からない指令。

 

そんな指令にも AI は答えてくれる。AI にはたしかに創造性がないのかもしれない、けれど物語の類型について、わたしよりもはるかに多くを知っている。だから AI はその設定で、よくありそうな話を作ってくる。その話はそれほど面白くはない。けれども少なくとも、場面の転換がある。

 

わたしは思う。なるほど。ここでたとえば、予想外の人物から電話がかかってくることにすれば、物語は前に進むのだな。

 

いったん動き出してしまえば、それが誰なのかを考えるのは、きっとこれまでほど難しい作業ではない。わたしは考え、物語は形を明らかにしてゆく。

 

設定を考えたのはわたしだ。中身を考えたのはわたしだ。AI が最初に提示してきた物語は、ただ電話がかかってくるという点を除いて、プロットには反映されていない。そのプロットはわたしのものであり、AI にはただ助けてもらったに過ぎない。

 

イデアはわたしの頭の中に宿った。具体的なことを考えるのは、つねに個人の頭脳なのだ。

 

だけれど、そこまでわたしを導いてくれたのは、間違いなく AI の功績だ。

 

だから、逆に言えば。個人の頭の中に宿るというのが、アイデアなるものの定義だと言ってもいい。そしてそれを励起させるための仕組みは必ずしも、個人の頭脳に収まっていなくても構わないのだ。