バカの書いた人間

人間についてなにか一般的なことを言うのが大好きなわたしたちは、とにかくひとをカテゴライズして、ステレオタイプに当てはめたがる。いくつかのカテゴリーの人々は互いに仲良くするものと相場が決まっているし、そして特定のふたつのカテゴリーの人間同士は、互いに憎み合うものと宿命づけられている。一口にカテゴリーと言っても、性別や人種や年齢や民族や宗教やその他諸々つねに政治的な火種になっている危険なものから、オタクとかギャルとか意識高い系とかニートとかそういう、明文化されないアイデンティティにすぎないものまでいろいろある。

 

とはいえ人間は誰もステレオタイプではない。世の中に同じ人間は誰一人としていない、という普段は反吐の出るきれいごとと一緒になってしか使われないことばはある意味真実を突いていて、そのひとの属するカテゴリーのステレオタイプそのものである人間は人間味に欠けるのだ。ステレオタイプな人間の登場する現代の寓話を聞いて「こんなひと、いるいる~~」と無邪気に騒ぐわたしたちは、けれど具体的に誰が「こんなひと」なのかを思い浮かべているわけではない。よしんば思い浮かべていたとしてそれはまず、そのひとのひとつの側面が「こんなひと」かもしれないというだけだ。

 

さて。寓話を作る側の立場に立ってみよう。その寓話が真面目な作品なのであれば(つまり、バカを意図して書かれた作品でなければ)、登場人物にはある程度の人間味を持たせておくものだ。必然的に彼らはステレオタイプから独立したひとりの人間になる。彼らの特徴を一言でいいあらわすことは到底不可能だ。そのキャラクターに人気が出れば、カテゴリー、言い換えるなら属性の名前になることはあるかもしれない。しかし、その逆はない。

 

けれど意図されているものがバカであれば、登場人物はいくらステレオタイプであってもいい。ステレオタイプであるがゆえの面白さというものは確実に存在し、登場人物がステレオタイプ的であればあるほど、ギャグの滑稽さは増すものだ。「こんなひと、いるいる~~」と読者に思わせてゲラゲラと笑わせるためには、彼らは極限まで一般的な人間でなければならない。言い換えれば、ひとりの人間として尊重されうる存在であってはいけない。

 

要するに。人間についてなにか一般的なことを言うことをこよなく愛するわたしたちは、きっとギャグを書くべきなのだ。

 

人間を一般化したところで、人間を書く役にはあまり立たない。人間の魅力的なところは、カテゴリーの上に載せられた個別性の部分にあるからだ。けれどステレオタイプこそが重要な作品、バカな作品なら、きっと一般化だけで人間を書ける。わたしたちが磨きあげている、抽象的な思考から何か一般的なことを言う役立たずの能力が、きっと珍しく役に立つ。

 

とはいえ、ここで書いたことをそんなに真に受けないでほしい。ここに描かれている内容は、わたしの抽象的な思考から来た、純粋な役立たずの論理にすぎないからだ。