情景描写の余白性

文章の練習としてわたしは日記を書いているけれど、なかなかそれだけでは上手くはならない。日記に書く文章の形式は思ったより偏っていて、いざ真面目に文章を書こうと思うと、これまで真面目に向き合ってこなかった領域の存在に気づいてしまう。その領域はわたしの文章の上手さを、確実かつ効果的に毀損する。困ったことだが、「上手さ」という概念には「欠点がないこと」という構成要素があるからだ。

 

その最たる例が情景描写だ。それは抽象的な論理を展開するぶんには全然必要にならないのに、ある程度文学的な文章を書こうとすると決して避けては通れない。というのも、文学というのは本質的に具体的なものだからだ。具体的な物事そのものが文学になることはもちろん多いし、抽象的な何かを語るときでも、文学は必ず具体性を用いて語る。具体的な出来事を用いて、筆者は複雑な世界を記述するのだ。

 

具体性を書かなければいけない以上、具体的な文章が必要だ。そして具体的な文章を書くには、ものごとの様子を具体的に説明してやる必要がある。そしてたいていの場合それには、その場の風景その他、五感にまつわる表現が必要になる。具体性と情景描写は切っても切れない関係にある。

 

さて。けれど情景描写の難しいところは、具体的な何かを説明せねばならぬというその点ではないだろう。それで済むならば、多少の語彙力さえあればどうにかなるのだ。難しいところはむしろそれとは逆で、具体的な何かを描写することを通じて抽象的な何かを示唆しなければならないことだろう。

 

もっとも単純に思われる例は、シーンごとの雰囲気作りだ。主人公が喜んでいるなら、明るいことばで事実を表現する。不安なら、暗かったり奇妙だったりする場所を強調する。怒っているなら、きっと景色は不愉快だろう。同じ景色でもそれを表現することばは複数あり、筆者はその中で最も雰囲気に合うものを選ばなければならない。そう聞くと当たり前のように思えるが、やってみると結構、できない。

 

ほかの例ももちろんある。情景描写に伏線を交えてもいい。誰もついていけないほど正確に描写してもいい。とにかくそこにはいろんなテクニックがあり、いろんな作者がテクニックを考えている。けれどそれを学ぶのは未来のわたしに任せるとして、ここではほかの問題を考えてみよう。すなわちなぜ、情景描写がそんなに柔軟なのかについて。

 

理由として思い当たるものはひとつある。それは情景描写が本来、何もしない文章だからだ。たとえば登場人物が会話をしている部屋が、詳細に描かれているとしよう。もう片方ではまったく違うように描かれた部屋で、同じ人物たちが同じ会話をしている。さて、果たしてこれらの会話は、異なる結末を辿るだろうか? 答えはおそらく、ノーだ。

 

かくしてある意味、情景描写は無駄だ。その場所がどうであろうと、物語に影響を与えないのだから。何らかの説明を与えねばならぬから、与えているだけ。そしてそれゆえに、筆者はそこに様々な情報を載せることができる……いや、載せなければならない。

 

良い文章は、すべての文に意味がある。けれど情景描写には、物語展開上の意味がない。ならばそこには、また別の意味を載せるしかない。雰囲気や伏線という意味を。情景描写とはある意味、必要性から生まれた不自然な余白なのだ。必ず発生するのに、なにかを書き込まなければならない。

 

それと付き合っていかねばならないのは、ある意味不毛とも言える。物語と直接関係のないところを練らなければならないのだから。けれどそう決まっているものは仕方がないから、結局のところ、練習あるのみである。