無関心と跳梁跋扈

 素晴らしいことに、ひとはわたしが思うよりはるかに、わたしという存在について無関心である。ゆえにわたしが、取るに足らない迷惑ごと――もっと危険なものでもいいが念のため、映画館で巨大なくしゃみをを発してクライマックスを台無しにした、とかだとしておこうか――を働いたとして、それはこのわたしが迷惑をかけたという物語としてではなく、単に迷惑なやつがいたという物語として消費される。

 

 怒り狂った観客は感情のままに、インターネットに文字列を書き残すだろう。もちろんかれらはわたしの正体を知らないから、わたし個人を明確に特定する形で文句を言うことはできない。たとえ正体を知っていたところで、インターネットに対する本能的な恐怖心から、かれらはその迷惑を、わたしの正体を特定できる形で書きはしない。そしてその優柔不断をしばしば「名誉棄損で訴訟を起こされるリスクの管理」と呼称し、かれら自身が理性的な合理主義者であるという真っ赤な嘘を周囲に向かって懸命に印象付けようとする。

 

 めったにないケースだが、世の中には勇敢な人間もいる。幼児がお化けを抽象的に恐れるようにひとびとの多くはインターネットを抽象的に恐れ、そして恐怖とはいつもその抽象性の中にあるわけだが、合理的無鉄砲さを備えた一部の人間は、そもそも抽象性に恐怖が宿りうるとは思っていないのだ。かれらが具体的なリスク――本当の意味での「訴訟を起こされるリスク」――を怖がるかはさておき、大人であるかれらはお化けとインターネットを同じ、幼児期に克服すべき妄執とみなしている。

 

 だがかれらのような堂々たる人間を相手にしてさえ、わたしは安全である。というのも、わたし個人を糾弾するのに必要な素養とはけっして勇敢さだけではなく、映画館でくしゃみをした人間に対し、集団に対する積年の恨みがたまたまわたしで爆発したという偶然性の力さえも借りず、強烈な個人的な恨みを抱けるだけの活気が、煮えたぎる血色が必要になるからだ。

 

 迷惑をひとは、どうやら個人に起因する問題だとは考えない。映画館でくしゃみをするという問題はわたしの自由意思か、そうでなければやはりわたしに属している鼻という器官の粘膜の生化学的な反応の問題以上のものにはなりえないわけだが、その厳然たる事実はちっぽけであるがゆえにつねに無視される。かわりにひとはそれを社会問題ととらえる――わたしという具体的な存在の性格的あるいは生理的な問題への無関心は、かわりに世の中全体を覆うどんよりとした雲として、抽象化され、本質をぼかされ、肥大化され、そして興味を持たれる。

 

 そしておそらく、その関心はわたしを止めないだろう。当の迷惑行為の主にとってみれば、社会なるあいまいさがいかに激しく糾弾され、エスカレートをつづけたところで、そんなことまったく、痛くもかゆくもないのである。