日記をやめて、書くことが習慣でなくなったあとにまたなにかを書きたくなったら、わたしはたぶんここに戻ってくる。戻ってきて、本当に書きたいなにかを書く。
その日が来るかは分からない。けれどいまのところ、そう遠くないうちにわたしはまた、文章を書きたくなる気がしている。日記をはじめたときと同じように、身体のうちに荒ぶる思考を抑えきれなくなって、それをエディタにぶつけるのだろう。
本当にそうなるかはさておき、そうなると宣言しておくことは有用だろう。というのも、もう戻らないと宣言したところに戻るのは大変だからだ。その誓いを守るかはさておき、戻ると書いておきさえすれば、わたしはいつでも戻ってこられる。こうすることで得られる未来の可能性は、戻ると宣言したところにいつまでたっても戻ってこないことの生み出すであろう失望と比べて、はるかに大きい。
というわけで、わたしはいつかまた戻ってくる。戻ってくる予定はないので、時間の指定はしない。
そうならなかったときのことを考えても得られるものはないので、そうなったときのことを考えよう。そうなったわたしは執筆という行動に飢えている。日記をはじめるまえと同じものをわたしがまた感じるのであれば、頭の中では出口のない思考がうごめいて、ほかのすべての行動と、ほかのすべての思考の存在する余地を、ともに制限している。
そうなったときにわたしが書く文章がどんなものになるのか、わたしは楽しみである。
この三年間とは、執筆への渇望とは無縁の三年間であった。毎日これだけの量を書いていたのだから、当たり前である。わたしの頭蓋に落ちた思考というしずくは、その内側を満たそうとする間もなく、日記というバケツへと注がれていった。頭蓋に響く音の音色を、変えるだけの暇もなかった。考えた先から、あるいは考える前にも、わたしは書いていた。
この頭蓋をふたたびあの行き場のない思考で満たしたいと、真剣に願っているわけではない。だがそれはわたしにとって疎遠になった旧知の友であり、たまには合って盃を酌み交わすのも悪くない、というわけである。
そしてなにより、その思考と付き合うわたしが遂げた変化のありかたを見てみたい。
わたしは書きつづけていた。それはアウトプットという欲望の解消であると同時に、文章の形式の訓練でもあった。だが文章とは、内容と形式がそろって初めて価値が出るものだ。内容のないこの日記は、文章のまがいものである。
だからこそ、わたしはわたしの頭の中に、書くべき内容が溜まるのを待ってみたい。