最後の時間 ⑦

 就職して時間がなくなるから、わたしは日記をやめる。あえてこれまで口にしてこなかったことだが、同時にまぎれもない事実でもある。

 

 正直に言って、日記は負担である。

 

 書くことに慣れていなかった最初のころはもちろん、負荷はいまよりもはるかに大きかった。そのかわりに熱意があり、それがわたしに書きつづけさせていた。もちろんいま、その熱意は失われているが、そのかわりにわたしは技術を得た。そのおかげで、現実的な負担で書きつづけることはできている。

 

 けれどやっぱり、書くのは大変である。すくなくとも、いまより忙しくなっても日課にしつづけたいとは思えないくらいには。

 

 日記をやめればできることが増える。単純に時間が空くし、気力も費やさずに済むようになる。いまのところわたしは毎日、夕食後に日記を書くことにしているわけだが、夕食後にまだやるべきことが残っているという状態が毎日つづくのはけっこう、精神衛生上よろしくないことである。日記をやめさえすればわたしはまた、忘れかけていた自由を得られる。

 

 それで空いたリソースをなにに使うのかはさだかではない。わたしはわたし自身の生産性を信じていないから、今後おこなうなにかは日記よりも有意義なことに違いないなどと、無責任に信じ込むことはしない。日記を消して空いた時間を、わたしはただネットサーフィンをして過ごすだけなのかもしれない。すくなくとも、なにか代わりにやることを見つけているわけではない。

 

 だがそれでも、わたしはそろそろ自由になってもいい頃合いなんじゃないか、とも思うわけである。

 

 わたしはわたし自身から自由になりたいわけだ。

 

 これまでこの日課をそういう目で見たことはなかったが、日記とはすなわちゆるやかな拘束であった。けっして快適ではないし、本気で抜け出そうと思えばいつでも簡単に抜け出せるけれど、そう決断するほどには不快でもないがゆえに、ずっとつかまったままでいることを消極的に選択しつづけさせる、真綿のようにふわふわの罠。

 

 その罠をつくったのがだれか他人であれば、責任転嫁もできたかもしれない。硬派な罠でがんじがらめにするよりも簡単に、長期間わたしをつき従わせるこのシステムの巧妙さに、毒づきつつも感心することすらしたかもしれない。だが歴史はそうではない。この罠を仕掛け、わたしをつかまえて離さなかったのは、ほかでもない過去のわたし自身である。わたし自身の性格を考慮し、わたしの自由意志が従うことを選択しつづるようなシステムをつくり出したのは、わたしをもっとも理解している存在である、わたし自身だったのである。