まとめ ②

 たぶん、文章を書くのは好きだ。

 

 毎日のようにやっていると、好きなこともあまり好きだとは思えなくなる。だから好きなことというのは、続いていることという意味だ。そして日記は続いている。だから、きっと好きなのだろう。

 

 その程度のあいまいな「好き」で満足できる。つまりその程度には、わたしはこの日記に意義を感じていないし、熱意もないということだ。わざわざ続けねばならぬと強く思っているわけではない。いい文章を書かなければならないと思ったことは、もう二年くらいない。

 

 だからまあ、辞めても特に問題はないということだ。

 

 わたしは自分のアイデンティティを書いてきたつもりだ。ここで言うアイデンティティとは、出自や経歴ではなく、自分がどういう考えかたをするのかという意味である。

 

 自分自身の思想を素直に書くということに関して、大きな嘘はつかなかったつもりだ。小さな嘘ならついたし、うまくまとまらない表現を適当に済ませて妥協したこともたくさんあるが、大枠は外していないはずだ。だからここには、ことばはだいぶ下手くそで乱雑だが、わたし自身が書かれていると考えて差し支えはない。

 

 それはこの場所が、自分自身以外のだれかのために書く場所ではなかったからである。

 

 だからわたし自身がこの場所をとくに必要としていないのなら、わたしはいつだって、書くのをすっぱりとやめていいということである。

 

 三年弱もやってきて、いまだにこの場所がそういう場所であることを、わたしはほほえましく思う。

 

 この場所は変わらなかった。書く内容は変わったし、書きたいという気持ちはすぐに減衰していったが、立ち位置は変わらなかった。書くべきことはどんどん減っていき、書くのにかける時間はどんどん短くなり、指は自然と速く動くようになったが、変わらなかった。わたしのためだけの場所であるという点は、最初から変わらなかった。

 

 考えてみれば、なかなかすごいことかもしれない。ひとはだんだん、自分の作ったものを見せびらかしたくなってくるものだから。

 

 あるいは、見せるに値しないものでありつづけたことが、わたしをそういう衝動的な承認欲求から自由でいさせてくれたのか。

 

 まあ、理由はどうでもいい。欲を見せれば壊れてしまう場所が、欲を見せなかったがために壊れなかった。そういうことも世の中にはある。

 

 わたしはたぶん、この日記が好きだ。とりとめもなく、乱雑で、書いたら二度と読み返すことがないゆえに。気合のきの字も入っていない、しょうもない文章であるがゆえに。そうありつづけたがゆえに。

 

 つまり、本気でやらないほうがいいことも、この世にはあるということだ。