わたしはこの日記を、だれかに読んでほしいと思って書いているわけではない。
もっとも、ごく最初のほうは違ったかもしれない。
どんなことでもはじめのうちはそうであるように、あのころのわたしは熱意に燃えていた。いい文章が書きたかったし、いい文章が書ける人間になりたいと強く願っていたし、だからこそ重い腰を上げて新たな習慣を作ったのだった。
書くべきことが大量にあった。すくなくとも最初はそう思っていた。執筆というものの持つ力を初めて知ってから四年。そのあいだ、脳内に生み出しては書かずにいたあらゆることばが、そのとき出口を求めて頭蓋をガンガンと叩いていた。
それらはときに生活に支障を来たしていた。日中に見たニュースやだれかのつぶやきから思考が連鎖し、やるべきことも手につかず、ただ一日を考えることだけに費やす。思索にふける、と表現すればなかなかに文学的退廃の味がして素晴らしいが、今風に言えば、ただの時間の無駄であった。
わたしの熱意は複数の要因の複合だった。だがいちばんの要因は、それらのことばを解放してやらなければという使命感だった。頭蓋にポンプを取り付けて、ことばというガスをエディタに吹き付けてやるのだ。
その試みはうまくいった。ガスは抜け、生活はまともになった。すくなくともいま、なにかどうでもいいことを考え続けて一日が終わる、ということはほとんどない。
最初にその状態に至るまでははやかった。二週間で書くことが尽きた。
その最初の二週間。わたしはたしかに、だれかに読んでほしいと思ってこの日記を書いていた。
文章はいまよりはるかに不自然だったはずだが、そのなかに流れるのはわたしの脳の分泌する思想の、どろどろとして濃厚な原液であった。わたしはあのときわたし自身を表現していたし、そこに使う具材を惜しんではいなかった。
いい文章だったかはさておき、そこにはだれかに伝えたい自分がいた。
自信はもちろんなかったが、一日でできる範囲で、精一杯やっているという自負はあった。わたしはこういうことを考えて生きているんだ、ということを、ほかのだれかが味わえるかたちで残したかった。
だがいまはそうではない。
いつからこうなったのか、時期はさだかではない。
二週間で書くことが尽きたとはいえ、最初のうちそれは一時的なことだった。しばらくのリハビリを経てすぐに書くことは復活した。いまのように同じテーマについて書き続けて引き延ばす、といったことはしなくて済んでいた。それがこうなってしまったのはいつからだろうか。
答えるならおそらく、いつからということはなく、だんだんに、というのが正しいだろう。