技量判定 ①

 書かないとやっていられないことがあるという以外に、日記を始めた理由はもうひとつあるのだった。

 

 文章がうまくなりたい。うまくなるためには訓練が必要である、というたぶん間違ってはいないが確実に安直ではある発想にしたがい、わたしは日記を日課にした。とりあえず、そうしておけば書きはするだろうからだ。

 

 わたしの目論見は当たり、わたしはその後三年にわたって毎日、欠かすことなくなんらかの文章を書きつづけた。このことを誇るべきか否か、ということにかんしてはずいぶんと無益な議論を繰り広げた記憶があるが、今となってはもう、素直に誇っていいことだと思う。継続とはそれだけで誇れることであり、そして一見して誇るべきであるように見えることにあえて理由をつけて誇らずにいるというのは、それを素直に誇るよりだいぶ、鼻につく態度である。

 

 とはいえ訓練の成果については分けて考えなければなるまい。わたしはこうやって三年間、しめて百万字を超える分量の文章を書いてきたわけだが、そのことがどれくらいわたしの実になったかということにかんしては、これをわたしが誇るか誇らないかに関係なく、客観的な評価が必要である。客観的な評価がいるとは言ったが、そんなことをしてくれるひとなんて存在するわけがないので、主観的な評価で代用する必要がある。

 

 この三年間はどれくらいわたしの実になったのか。

 

 もちろんそんなことはわからない。確実に言えることとして、千文字程度を埋めるという作業が最初と比べてはるかに苦にならなくなった、というのはあるが、楽になったこととうまくなったことは別である。ただ楽をするようになっただけでクオリティーのほうは下がる一方である、というのだって、全然ありうる話である。

 

 クオリティーが上がっているのかどうかも、主観では判断する手立てがない。わたしはいまこうやって文章を書いており、わたしが苦しまずに書ける文章の中で一番良い形態がいまの文章形態なはずだと思っているが、その「一番良い」という判断基準だって、いまの形態に影響されてできたものだ。つまりこれが良いのか、あるいは昔のほうがよかったのかということにかんして、いまのわたしは原理上、判断できる立場にない。

 

 つまりは、こういう進展しない理屈をうだうだと並べ続けたところで、なんの意味もなければ、なんの評価にもつながらない。

 

 ではどうすればいいのか。わたしはわたしの文章の出来を、どうやて判断すればいいのだろうか。

 

 もちろん、文章を書くことを通じて判断するしかない。そしてそれは、日記の文章であってはいけない。日記の文章はいまのわたしの文章であり、いまのわたしが評価しうるものではないからだ。