自由の身

 すべてが終わって楽になった。締切や予定で忙しいのだということをここ一か月ほどのあいだこの日記には何度も書いてきたわけだけれど、これでようやく正真正銘、わたしは自由の身である。

 

 予期していたとおり、期日はきちんと守れた。直前に必死で頑張るということもなく、かといって暇すぎるということもなく、ちょうどいい塩梅の大変さでこの一ヶ月を乗り切った。われながら素晴らしい計画性であり、そうするにあたって計画などいっさい立てていないという点を鑑みれば、わたしにはすべてをいい感じに終わらせるという、計画に関する天性のセンスのようなものが備わっているのかもしれない。すくなくともひとつだけ確かなのはわたしがいま調子に乗っているということであり、その原因は間違いなく、自由を勝ち得た解放感から来るものだ。

 

 とはいえその解放感とやらは、これまでの人生で感じたほかのいくつかのものと比べても、まったくたいしたことはない。予定がなにもなくなったという意味でわたしは真に解放されてはいるのだが、この一ヶ月の忙しさからいまの状態に至るまでの落差は、過去に体験したものよりよほど小さい。そしていまが真なる解放状態である以上、落差の小ささを決定する要因はひとつしかありえない。わたし自身の類稀なる計画性のおかげで、わたしはこれまでもそれほど忙しくなどなかった。

 

 解放に至る落差のより大きい、本当の意味で解放と呼んでいい体験について、せっかくだから思い出してみよう。

 

 恥ずかしいほどにありきたりだが、それは小学生の時分、中学受験が終わったときのことだった。二月三日の試験から帰宅し、合格発表を見て、さあこれで晴れて自由の身だとなったその日の夜、わたしはめっきり食欲を失った。疲れすぎて食べる元気もなくなったのだろうと思って迎えた翌日もまたその翌日も、わたしはそれほど食べなかった。

 

 わたしはなにもしなかった。いまでこそ、そういうときになにをすればいいのかは考え付くが、当時のわたしには無理だった。巨大ななにかから解放されて生活ががらりと変わるという経験をそれまでわたしはしたことがなく、なにをするにも気力がわかない自分を、まるで他人事のようにただ漠然と不思議に思っていた。初めての経験だから仕方がないといまでは思うが、メタ認知の発達していなかった当時、そのように割り切る能力をわたしは持っていなかった。

 

 現在、わたしは当時の自分を正当化できる。解放されて数日はなにもせず、ただ心の赴くままに過ごすことが正しいのだ、と言い張ることができる。それは精神に必要なバッファであり、しばらくすればまたやる気が出てくるということを知っているから、なにもしないでいることを不安に思う必要がないと知っている。

 

 そしていま、わたしはそういう状態にはない。だからいま休んでいるのは単に、わたしの怠惰のせいである。