奇妙な取り合わせ

 年始はだいたい終わり、そろそろ世の中は通常営業である。

 

 年末年始などどうでもいいとわたしは言っていた。それは過剰な解釈を与えられているだけの普通の休みであり、非日常でなければならぬという制約にがんじがらめにされた息苦しい日常である、と定義した。だからわたしは、そんな制約にはとらわれずに、通常通りの生活をしていくつもりであった。

 

 その指針はおおむね達成されたとはいえる。すくなくとも、年明けというただの暦の切れ目をことさらにめでたがったりはしなかったし、この期間、普通の休みにとるのとできる限り同じ行動をとっていた。言い換えれば、普段通りに、わたしは休みを無為に過ごした。

 

 けれどもそう言いながら、わたしはこの日記で、もう一週間以上もそのことをアピールしつづけている。年末年始など気にせず、いかに書くことがないとはいえ、これまでに書いてきたような題材で書き続けていれば、この忌まわしい期間からほんとうの意味で自由になれたかもしれないのに。

 

 言い訳はしないでおこう。そんなことをしても憐れなだけだ。なにかに意味がないとことさらに言いたてる人間こそ一番それに縛られている、というのが、世の中不変の真理のひとつである。

 

 だから否定するかわりに、この時期を振り返ることで、わたしの年始を終わらせにかかろう。

 

 達観し超然とした人間にわたしがいかに憧れるからと言って、世の中の動きに言及しないわけにはいくまい。

 

 今年の年始、この国では巨大な事件が立て続けに起こった。それがなんであるかについてはさすがに、わざわざ説明する必要はないだろう。

 

 結果として今年、正月は普段と異なる様相を呈していた。演じられた非日常としての正月は本物の非日常によって塗り替えられ、まるでマシュマロの海に汚泥を注ぎ込んだかのような奇妙な色彩感をもって、わたしたちの眼前に立ち現れたのだった。

 

 その色に新奇性を感じなかったと言えば嘘になる。共存することが想定されていなかったものが共存するその景色にはえもいわれぬもどかしさがあり、まるで右目と左目でまったく別の映像を見ているときのように、ふたつの認識は混ざり合うことなく重なっていた。とにかくじつに奇妙な感覚であり、金輪際感じないかどうかは分からないが、すくなくとも珍しいことだけはたしかな、そんな取り合わせであった。

 

 この困惑はきっと、多くの人間が感じている。だからこれが比喩でなく、きちんとしたことばで説明される日はきっと来るだろう。だからこそいま、わたしはこのありのままのもどかしさを記録しておきたい。洗練されたことばが、この奇妙で言いようのないあいまいさを、すべて押し流してしまう前に。