最後の時間 ①

 日記をやめると決めたら、なんらかの心境の変化のようなものがあるかと思ったが、案外そうでもなかった。

 

 あと一ヶ月である。あと一ヶ月、これを含めて三十二回を書けば、この日記は終わる。使い古されたせいであまり面白くはない考えかたによればそろそろ、片手の指で数えられる日数である。そう考えると、あとすこしなような気がする。

 

 とはいえあと一ヶ月もある。千文字ずつ書けば三万字を超え、これは中編小説の量である。つまり、短いようで、長い気もする。

 

 ボトルに水が半分だけ入っているのを見て、半分しかないと考えるのか、それとも半分もあると考えるのか。それは一応、個々人の考えかたの違いをあらわにする寓話というかたちをとってはいるが、実のところはポジティブな思考の強制に過ぎない。半分もあると考えねばならない、ということをだれもはっきりとは言わないが、はっきり言わないということはべつに、中立を意味しているわけではない。

 

 今回の場合はどうなのか。日記があと一ヶ月しかないと考えることと、あと一ヶ月もあると考えることの、どちらがポジティブな思考なのか。ポジティブなことが望ましいのだという教訓に素直にしたがうとして、わたしはどちらにしたがえばいいのか。

 

 正直、あまりよくわからない自分がいる。

 

 書きたいことはもうない。いつも書く内容に困っている。やめるという決断が現在はたしているもっとも重大な役割は、やめるということについて書く、という、つなぎのテーマの供給である。きっとそれは、この余りすぎた尺を二週間分くらい、埋めてくれる内容ではある。

 

 そう考えると、わたしは日記を書きたくないのかもしれない。やめると決断したあともそれは同じで、もう書く機会がないからとあれもこれも書きたくなってテーマが大渋滞を起こす、なんてことはない。そうならないということはすっきりとやめることができるということだから、きっと歓迎すべきことではあるような気がする。けれどべつに、それを手放しで喜ぶかといえば、そんなこともない。

 

 あと一ヶ月もあるというのはその意味で、むしろネガティブな考えかたなのかもしれない。尺がもつか心配であるということをそれは意味しているからだ。

 

 けれど、尺は持つ。書きたいことなどもうとうに存在しないが、それでもわたしは書いてきた。惰性で同じことを繰り返すのに、最後の一ヶ月だけがきついなんて、そんな変な話があるわけがない。