別人

 一年後の自分は別人である。

 

 半年後でも余裕で別人である。明日の自分はさすがに同一人物である。二か月後だとちょっと怪しい。一か月後の自分は、さすがに同一人物だと信じたい。

 

 来年の正月、わたしは別人である。それはもちろん環境が変わるせいもあるだろうが、それ以上に、一年という時間がそれなりに長いせいである。子供のころの一年にくらべればずいぶんと短く感じるようになったが、それでもわたしの考えかたをそれなりに変えるくらいには長いことには変わりない。

 

 いたって単純、新年の目標を立てるのをやめた理由はこれである。

 

 いま目標を立てたところで、振り返ることにはもうそんなことは忘れている。忘れるからどこかに書いておくわけだし、この日記がそのどこかになるわけだが、そもそも目標を立てたという事実をわたしは忘れるだろうから、どうしようもない。

 

 そしてそれ以上に、この時期に適当に立てた目標は、半年もすればもうどうでもいいことになっている。半年後のわたしは別人であって、価値を置く対象すらおそらくだいぶ変わってしまっている。

 

 その状況でわたしにできる唯一のことは、せめて半年後の自分の邪魔をしないことである。半年後のわたしは他人ではあるが、同時に連続した自分でもある。だから、今年の目標だからといって、すでにどうでもいいとか的外れだとか思っていることを無理やり続けなければならないような目には遭わせたくない。

 

 というようなことを考えたのがたしか、高校生か学部生のころだった気がする。

 

 年を取るにつれて、体感できる時間は短くなる。幼少期に永劫にも思えた一年という期間は、いまではもう、また飽きもせず正月が来たのか、と思えるくらいには一瞬である。ならばいまの自分が別人になるまでの期間もまた長くなっていると考えるのは、きわめて自然なことかもしれない。

 

 一年後はさすがに無理だとしても、もしかすると半年後くらいの自分は、いまの自分とそれほど大きく変わらないかもしれない。そしてもしかすると、内心で目指しているものが同じでありつづけるのかもしれない。

 

 目標を立てるのをわたしはやめた。それは無意味であるばかりか、未来の自分にとっての足枷にすらなってしまうからだ。けれどもそう考えるようになってからそれなりの時間が経って、時間そのものが短くなったいま、もしかするとそれは、足枷にはならないようになっているのかもしれない。

 

 だからといって目標など立てるわけではない。なにかを設けても困らないかもしれないということはべつに、それを設置する理由にはならない。だが目標というものに対する認識そのものは、そろそろ改めるべき時期なのかもしれない。

 

 なんと言っても、目標を足枷だと考えたころの自分は、すでに思い切り別人なのだから。