最後の時間 ②

 とうの昔から、日記に書きたいことはない。けれどもう、テーマに困ることもほとんどない。あからさまな矛盾だが、それが事実なのだから信じるしかない。

 

 どうすればそんなことが可能なのかという問いに、答えを出すのは簡単だ。わたしが普段やっていることをただ思い返せばいいだけだからだ。というわけで思い出してみるとわたしは、なにを書くのかよく分からないまま書きはじめ、分からないなりにとりあえず手を動かしている。そうやってしばらく無心でいると、不思議なことに、いつのまにか文章が出来上がっている。こう書くと魔法のように見えるので、きっとわたしは魔法使いである。

 

 ……もうすこし真面目な分析をしよう。さすがに。

 

 最初の段階で、書くことは分かっていない。書くべきことも書きたいこともない、という事実をわたしは認識するので、その率直な認識について書きはじめる。書くことがないのはいまにはじまったことではないから、その文章は必然的に、書くことがないなんていまにはじまったことではない、ということについてのものになる。

 

 わざわざ言及するまでもないが、今日ももちろんそうだ。今日もそうであるというメタな言及はする日もあるししない日もある。たいていは言及している。自分の行動に対するメタ的な内容は、ほとんどなにも考えずとも思いつけるくせに、書くだけで文章がそれらしくなるから、書いたほうがお得である。

 

 そんなことをしていると次第に尺が埋まってくる。こういうふうに文章を書いているときのわたしは、とくにあとさきを考えて書いているわけではない。恥ずかしながら堂々と言えばいま、この次の段落になにを書くかも決めていない。とはいえ、次の次の次の段落くらいで書けたらいいな、というゴール地点は、ぼんやりと思い描いていることもある。

 

 今回であればゴール地点はこれである。「こういうふうに適当なことばを行き当たりばったりでつむぎ続けることができる、ということが、わたしが日記という経験を通じて獲得した、文章執筆能力のひとつの到達点なのかもしれない」。まあそう言えるかもな、というふんわりとした落としどころである。

 

 その結論をいつ見つけるのかといえば、今回は、二段落目くらいを書いている途中だった。もちろん見つからないことはあり、そういうときは最後、前を振り返って〆に使えそうな要素を探し、適当に締める。はからずも今回は結論を先に書く羽目になってしまったので、別のなにかを探す必要が出てきてしまったわけだが、経験上、なんとかなると踏んでいる。