技量判定 ②

 だれかが自分自身について評価するとして、普段の自分の行動がその評価の対象になり得ないのであれば、そのひとはどうするべきか。もちろん、普段は取らない行動を取ってみるしかない。

 

 わたしがわたしの文章の出来を判断する手段が、わたしがこの日記を書くことではあり得ないとすれば、わたしはどうすればいいのか。もちろん、日記ではない文章を書くしかない。

 

 書きつづけることをやめると判断するに至ったこの三年間を正当に評価したければ、わたしは文章を書くしかない。それはこの三年間にこの場所で書いたような文章であってはならず、それでいてこの三年間が活きるような文章でなければならない。そんなものが存在するのかはわからないが、とにかくやるしかない。

 

 つまりわたしは、書きつづけることをやめてなお、また書かなければならない。

 

 苦痛ではそれはないだろう。文章を書くという行為が基礎的に持っている快楽と、力を試すという行為がいつも備えている興奮とが合わされば、むしろそれは楽しいものであるはずだ。その試験がどのような形式になるのかとか、どのような評価をわたしが行うのかとかいうことは、わからないというかまだ決めていない。とはいえきっと、わたしはそれを楽しめる。

 

 だが、それをするのは今ではない。

 

 書くという行為はエネルギーを使う。それは体力とか気力とか精神力とか、筋肉とか正気度とかのどれとも違う、文章エネルギーとしか言いようのないなにかである。それは生きているだけで人間の内部にすこしずつ溜まっていくものであり、書くことによってのみ放出されるものであり、溜め込めば溜め込むほど、文章という呼気に力を与えるものである。

 

 毎日書いていると、そのエネルギーが一向に溜まらない。言い訳もいいところだが、実際に書いているわたしの等身大の実感でもある。

 

 というわけで、だ。わたしはわたしの能力を試験したい。だがそのテストは、文章のポテンシャルエネルギーというかそういうものがじゅうぶん高い時期に受けたい。そして残念なことに、日記を書きつづけている限りにおいて、そんな時期は来ない。そして日記をやめる日程はもう決まっている。

 

 だからその試験は、書きつづけることをやめたあと、具体的には四月以降に、受けてみるしかない。

 

 もしかするとその日は来ないかもしれない。文章を書くのをやめればまたエネルギーが溜まりはじめるだろう、とわたしは予測しているが、そうではないかもしれない。そうでないなら、わたしはもう文章を書かない。

 

 まあ、それならそれで幸せなことなのかもしれないが。