厳密性の要求値

 わたしが数学畑の人間だからだろうか、小説の文章を読んでいると、ときおり文章表現のあいまいさが気になることがある。たとえば順接でつながっているふたつの文の論理がじつのところまったく飛躍しているとか、主人公の行動の理由の説明がよく読むとあまり説明になっていない気がするだとか、そういう箇所が、小説にはたくさんある。小説はあくまで小説であって数学論文ではないのだから多少の非厳密は許容されるというのは理屈としては分かるのだが、理屈を知ったところで気になるものは気になるし、そもそも論理というものはほとんどの場合、明確であればあるほどよいものである。

 

 けれどもそういう文章はよく人口に膾炙している。同じ内容をお前が書けと言われればわたしはあいまいさを排除するために三倍の紙面を費やすのだが、そうしてできる文章はただ無駄に厳密なだけで、総合的な質の面ではまったくプロの作に勝てるような代物ではない。評価者が一般の人間どころか、厳密さを愛するはずのわたしであってもなおその質的評価は覆しがたく、このわたしも最終的にはやはり、世の中の表現には厳密さを犠牲にしてでも守らねばならぬものがあるという身もふたもない結論に達してしまうわけである。

 

 さて。とはいえ一度ついた癖はなかなか治らない。文章に過剰な論理的厳密さを求める癖がおそらくわたしにはあり、だから厳密にしても問題ない場面で自分が非厳密な文章を書くということをなかなか許容できない。よってあいまいだがすっきりとした文章というものをわたしはけっして書くことができず、たとえ書けたとして、それはきっと世に出ることはない。

 

 わたしの文章の、それは弱みである。小説を読んであいまいさに引っかかりを覚え、だがそれでも話がすっと入ってくるという種の体験をするたびに、わたしはおのれの文章の引き出しの少なさを、そしてそれを書いて良しとできるための感性のないことを思い知らされてきた。そしてそういう文章を意識して書けるように、何度かはこの日記で、わざとあいまいな記述を実験してみようかと考えたこともあった。けれど、いったいなにをすればそんなことができるのかに関しては、いっさいアイデアが浮かばなかった。

 

 というわけで、いまではもう諦めた。文章を書くたびにちらつく厳密さへの要求、それを無視するための方法を知らないのであれば、いっそとことんまで付き合うしかない。すべての内容に説明を与え、すべての論理を明確に接続し、すべての枝葉に補足を入れなければ気が済まないのであれば、そうすればいい。それでは書けない文章はいくらでもあるだろうが、仕方がない。

 

 そういう文章を書くプロだって世の中にはいるのだから、なりうる姿を目指せばそれでいい。