文体に影響されよ

最近、いろいろな表現形態を操れるようになるための訓練として、こうして普段とは違う文体で日記を書いてみてはいるものの、これにいかほどの意味があるのかと言われればなかなか、答えるのは難しい。文体というスタイルが文章全体に与える印象を見くびるつもりはないが、やはりそれでも文章の本質とは中身、なにを書くのかであって、どういう形式で書くかは表層の事象に過ぎないわけだから、幾多の文体をどれほど訓練して自在に操れるようになったところで、また内容に応じて適切な文体を選び取る嗅覚を獲得したところで、肝心の内容がくだらなければ、生成できるのは結局中身のない廃棄物でしかありえない。

 

文体を訓練する意味について思いをめぐらせていると、最近目覚ましい発展を遂げる人工知能技術が近い将来、そういった表面的な部分をすべてこなしてくれるようになるかもしれない、絵画の領域では「ゴッホ風のアレンジ」のようなお題に素晴らしい精度で答えている AI 様が、文章の領域でも文体を自動でいかようにも調整してしまうのかもしれないという推測に思い至り、そしてその推測は考えれば考えるほど、もはや人類の手の届くところにあるか、あるいはすでに手にしているように思えてくる。かりにそうであれば、同一の内容を別の文体で表現する能力を人間が鍛えることにはなんの意味もないわけであって、したがって文体を練習するならばそれ以外の部分、たとえば文体を指定することでこれから書く内容がなんらかの影響を受けるとか、文章の流れ上記述するべきことの集合が変化するとか、そういう副次的な部分に期待することによってしか、執筆活動は建設的になどなりえないのである。

 

かくしてわたしたちが分析すべきは、特定の文体で読むことが読者の感性にどう働きかけるかというよりは、特定の文体で書くことが筆者の思考回路にどう働きかけるかであるべきで、そしてそれはまさしくいま、わたしの脳内で起こっていることを解析せよという命令に他ならない。たとえばいまの文体、一文を極端に長くするという制約においてわたしは、いかに句点を挟まずに文を続けるかということに執心しているわけで、それは普段なら複数の文に分割されているだろう内容をつなげて、ひとつながりの文として成立するようにするということになるわけだが、そうできる文を書くためにはまず、文の構造を規定してしまう表現を文の最初に持ってこないように気を付ける必要があって、つまるところこうしてだらだらと続けられる文を書くには、最初からだらだらと続けるつもりで書かないと行き詰まってしまうのだから、結局それは情報を与える順番に気を付けろ、思考の順序に気をつけろ、という話になり、文体はわたしの思考をたしかに規定しているのである。