書き方の厳密さ

ひとに読ませる文章とは、何度も練り直されて世に出るものだ。ああでもないこうでもないと文章を校正してだんだんと改善していく過程には、最初に書くときとはまた違った苦しさがあり、喜びがある。

 

この日記は残念ながらそうではないが、そういう文章だってわたしは書く。たとえば、論文だ。博士課程学生をやっている以上書かなければならないその文章は、とうてい一発で書けるような代物ではない。数学の証明というのはなかなか思い通りにはいかないもので、どの変数にどの記号を割り振ったらいいかをはじめとして、書いてみるまで分からない問題がたくさんあるからだ。

 

書いてみるまで分からないものは、書いて分かるしかない。そうやって闇の中を進んだ経験から思うに、数学の証明のやり方には結構、明確な答えがある。自分がたどろうとしている証明方針を、もっとも効率的にたどる方法はなにか。その問いに応じてわたしは、証明の順序や記法、それに章立てを調整する。異なる書き方の間には明確に利点と欠点があり、そしてすべて合わせてみたときにどちらがより優れているかは、論理的に考えればいつかは分かる。そうやって、わたしはある方法を採用し、それに矛盾するすべてを棄却していく。そうして最終的に得られたものについてわたしは……きっと、それが最良の形に違いないという確信を持っている。

 

けれどほかの文章を書くときは、必ずしもそうではない。ある文をここに挿入すべきか、あるいはそうではないか。ある文を書くとくどすぎるのか、あるいはそれがないと分かりにくいのか。この場面でこの情報を明かすべきか、それとももっとよい機会のために取っておくべきか。異なる書き方の間に、たしかに利点と欠点はある。けれどそれのどちらがより大きいのか、わたしには判断がつかない。

 

ではほかの文章のなにがそうさせるのか。逆に言えば、証明を書くということをあれほどまでに分かりやすくさせているのは、数学のどういう性質なのだろうか。

 

もしかすると、それは慣れなのかもしれない。青少年期をわたしは文学の情操ではなく、数学の厳密さに触れ続けて生きてきた。わたしにとって厳密さとは情操よりも身近なものであり、それゆえにより楽に取り扱えるのだ、と。ありえない仮定だがもし、わたしが多感な時期を大量の本とともに過ごしたのなら、もしかするとわたしは数学的でない文章の良しあしを明確に判断できる人間であれたかもしれない。

 

そしてその考え方には、まったく希望がない。それは論理性に偏重していた若い頃の負債が、わたしがいま文章を書くことを阻んでいるということを意味する。そして若い頃の不勉強とはなかなか取り戻せるものではない。となるとわたしは一生、文章を書けないままだ。

 

だからこそ、そんなことを心配しては意味がない。だから数学の文章の書きやすさは、わたしではなく数学自体に見出した方がよかろう。数学は厳密であり、だからこそ書き方も厳密に定まる。その間に厳密な論理はないけれど、まあ……

 

それくらいのことは、妄信しても罰は当たらないだろう。