疲労と呪縛

疲れた。

 

わたしはいま、国際会議のため海外にいる。会議の三日目とレセプションを終えて帰ってきたところで、そのレセプションが長かったので、疲れた。

 

疲れたので、なにも思い浮かばない。なんらかの内容について毎日書くというのは、書く内容を考えるだけの精神的余裕があるからこそできることなのであって、その余裕というものは暇でなければとても保ってなどいられない。こうやってわたしが二年間日記を書き続けていられるのはひとえにこの二年間わたしがずっと暇であり続けたからで、だから今後就職やらなにやらで忙しくなったら、きっとこんなことをしている場合ではなくなってしまうのだろう、と今から思っている。

 

そうなってしまうのは寂しいが、必ずしも悪いことではない。知己の全員と一緒に堕落したいという迷惑な破滅願望を持っている一握りの人間を除けば現実が充実するのは良いことであって、日記に書けるような抽象論と縁遠くなってしまう原因が現実世界で具体的に考えることが多すぎることなのであれば、それはそれでまともな状態だ。もちろんわたしの悪意ある一部は、薄っぺらな現実にかまけてみずからを内省することを怠る人間のことを馬鹿にしているわけだけれど、別のもう少し素直な一部は、現実世界での具体的な活動に充実感を覚えることもある。

 

さて。とはいえ疲れるのは嫌いだ。現実を充実させるということは、必ずしも身を削るということとは一致しない。拘束時間の長いことはほぼすべてのケースで悪いことであって、こと飲み会の喧騒を嫌うことに関しては、わたしの悪意も善意も意見を同じくするところである。

 

疲れた精神に鞭打って、眠気と闘いながら書く日記も嫌いだ。正直なところ、いまは本当に、この日記を書きたくないと思っている。ならば書かなければいいだろうというのはきわめてまっとうな指摘で、わたしもまったくそう思う。それでも書いているのはこれが日課だからであって、つまるところ日課とは、ちょっと疲れていたり翌日の活動に響くと分かっていたりするくらいで、やめておくようなものではないのである。

 

言い換えればまあ、日課とは呪いでもある。

 

この日記とは、書きたいことを吐き出す場であった。書きたいことがなければ、書く必要はない。これはまた文章の練習でもあった。けれどどうやら最近の技術革新は、自力で文章を書くという能力そのものを、もはや不必要にしかねない。だからわたしが書き続けるのはもう、わたしが呪われているからに他ならないわけだ。

 

呪いはいつ解けるのか。それは解けてみるまで分からないが、少なくともわたしがこれを一生続けているとは思わないから、どこかの時点で書くのはやめるのだろう。それは就職のタイミングかもしれないし、人生の別の時点かもしれないが、いまのところは分からない。だがもはや自然と書かなくなるということはあり得ないから、呪いの解けるのは書くのをやめるのだと、わたしが強く判断したときになるのだろう。