歩幅

文章の書きかた。厳密性を面白さへと転化する方法をわたしは考えてきた。それだと長いだけになるから逆に、必要に思える冗長性を削ぎ落とし、説明不足のままで押し通すというのはどうか。

 

厳密性はそれでも担保できる。細かいのと厳密なのとは違うのだ。数学のサーベイ論文は証明をすべて飛ばしているが、引用元に任せているだけで、厳密性を失っているわけではない。参考までに。

 

数学ですらそうなのだから、自然言語の文章はなおさらだ。簡潔に結論だけを述べ、あいだの議論はすっ飛ばす。要所要所を抑えておけば、それでも厳密にできる。ストーリーに登場するすべてのシーンをつぶさに描写する必要はない。

 

悪い点はある。書くこととは思考の整理であり、整理とは細部をきちんとすることである以上、冗長でない文章を書いても考えはまとまらない。とはいえ執筆には、すでに十分まとまっている内容を書き起こすという役割もある。だからすべてを冗長に書かねばならぬわけではない。

 

書くことが尽きてくるとよくそういう状態になる。整理すべき思考がないのに整理するときの書きかたをして、ただ無意識に手が動くのをじっと眺めている自分自身。無意味な活動、日課を続けるという以外のなんの技術的精神的な効力を持たないとわたしは自覚する。

 

日記には機械的な制約があり、一日千字以上とわたしは決めている。くだらない制約だが、日課だから守りたい。こうして短く書くと千字とは長く、長く書くと千字は短い。書くことがないなら、学生のレポートよろしく、冗長にするインセンティブがある。自縄自縛のわたし、自作のくだらない制約に踊らされている。

 

発想とは飛躍である。細部を詰める作業はそのあとについてくる。わたしに足りないのが発想である以上、訓練すべきは非冗長な文章のほうだ。細かな整合性を一旦無視してまずは遠くジャンプし、そこまでの道のりは、さんざん培ってきた論理の力でどうにかする。そうして新しいなにかをつくる。ひとつの内容を数十字で書き切ってしまう文体と字数制約とが合わされば、白紙を埋めるために飛躍が必要になる。かくして訓練が成立する。

 

遠くへ行きたければ、足元を観察するのはほどほどにして、まずは歩幅を大きく前へと踏み出さねばならない。

 

細部はいくらでもどうにかなる。どうにかなるような訓練を積んできた。自由な目的地へと至る道を架ける作業をわたしはしたことがないが、どうせ厳密性の延長線だろう。必要なのはあくまで目的地であり、こうして問題が単純化されたいま、やるべきことは簡単だ。