書き終え

 あと三か月でわたしは就職し、この日記は終わるつもりだ。

 

 惜しいとは思わない。とうに書きたいことは尽きたし、こうやって続けていることがむしろ時間の無駄であるということにもすでに気づいている。辞める口実をわたしは探しており、就職で忙しくなるというのは間違いなく、人生に二度とないほど巨大な口実である。

 

 この機会を有効活用するとわたしは決めている。そうでもしないと、一生だらだらと書き続けてしまう気がするから。

 

 やめた後どうするのかは考えていない。とは言ってみたものの、べつに考える必要もない。そういうことを考えるべきなのは人生の巨大な部分を占めている活動をやめたときであって、わたしが日記書きを生業として生きているわけではない以上、心配の必要はない。

 

 やめたあとわたしは、夕食を食べてすぐに遊び始める。あるいは夕食後にもすこし働き、きりのいいところで止めて寝る。どうなるかは分からないが、心配するようなことではない。

 

 さて。今年も残るところ、あと三日である。

 

 あと三日ということは、日記を書くのがこれを含めてあと三回だという意味だ。三回というと少ない。少ない場合、書くべきことを厳選して、終わりに相応しい内容を目指さなければならない。年末は終わりによって定義されるのだ。

 

 ほかのことであれば、おそらくそういう気持ちになったことだろう。終わり良ければすべて良し。これから三回の日記が良いものなら、だらだらと似たようなことについて書きつづけてきたことしの駄文たちもまた、報われるというもの。

 

 けれどこの日記に限って、わたしはぜんぜん、年末気分を感じていない。

 

 あと三か月ちょっとでこの日記は終わる。そのことは承知しているし、明確なタイムリミットとして機能している。三か月後、わたしはひとしきり感傷にふけりながらこれまでを振り返るだろうし、この場の喪失を惜しんで素晴らしい文章を書こうとするだろうし、書くべきことが溢れて止まらなくなって何千字を超えて書き続けるだろうし、普段はしてこなかった校正作業までしてしまうかもしれない。

 

 けれど年末は、そういう巨大な感情のトリガーを引くような節目ではないのだ。

 

 年末というイベントについて、思うところがないわけではない。思うところに関しては昨日一昨日と書いてきた。連続する時間に無理やりに作った境目を境目だと認識するために世の中は巨大な仕組みを作り上げているし、このわたしもその仕組みに流されている。

 

 けれどそれでも、日記へ向ける感情だけは、年末だとか年始だとかそういうことが、全然関係ないのである。