日課と皮算用

この日記をはじめたのは去年の三月だった。はじめた経緯はいまとなっては思い出せない……なんてことはもちろんないが、もうどうでもよくなってきているというのもまた事実だ。当時はたしかになにか熱い想いがあったと記憶しているけれど、風呂と情熱は時間がたてば冷めてゆくものだ。自然の摂理に逆らおうとするほど、わたしはもう尖ってはいない。初心忘れるべからずということばは、初心は忘れるものだからこそ成立するのだ。

 

そんなどうでもいいことについて、だからもう書くつもりはない。ただでさえどうでもいいのに、書く題材に困るたびにそれについて書いてきたのだ。さすがにもう飽きた。お腹がいっぱいだ。

 

どうでもいいのに、じゃあなぜ書くのか。それについても何度も書いた。日課だからだ、以上。過去のわたしはどうやら、それだけの内容をさまざまなことばを駆使して書き連ねていたと記憶している。けれど執筆の大原則、文章とはシンプルなほうがいいのだ。日課だから、で説明が終わるのなら、ただ日課だからと書いて終わらせればいい。一言で終わる説明をぐだぐだと続けるのは、中身を掘り下げるのが嫌で嫌でしかたないときの作法だ。そんなもの、授業を聞いていなかった学生が単位だけのために書く、次数指定のついたやっつけのレポートだけでじゅうぶんだ。個人の可処分時間を消費してやることではない。

 

わたしはこの二十か月のあいだ、一日も欠かさずにこれを書き続けてきた。海外に行ったときなど一日の定義があやふやな場合にも、回数が変わらないように工夫して。一般にはきっと、それは素晴らしいことだ。継続したという事実は、それだけで誇るに値すると相場が決まっている。

 

そしてもちろん、わたしはそんなことを誇る気にはならない。最初の頃の熱い想いがすっかり冷めきって、ただの機械的日課へと落とし込まれてしまった以上。こんなものを欠かさなかったところで、なににもならないからだ。続けただけで偉いという言説は、続けてしまったひとのためのよすがにすぎない。意味のないことを続けてしまったことを、あとから正当化するためのみじめな屁理屈。

 

わたしとて皮算用をしないわけではない。意外にも書いた覚えがないことだが、わたしは毎日最低千字を書くとルールを決めている。このブログ、便利なことに執筆中に右下に字数が出るので、そういうことができる。ブログ全体での文字数を調べる方法は知らないけれど、これで少なくとも、これまでに書いた字数を見積もることができる。千字かける二十か月かける三十日。しめて六十万字。千字より多く書く日はそれなりにあるから、だいたい七十万か八十万字というところか。つまり、長編小説数冊分の分量になる。

 

この労力を小説に傾けたところで、べつに小説になるわけではない。書こうと志して何度か挫折しているからよく知っている。論文の執筆時間だけで論文が書けると言えばだれでもおかしいと気づくのに、こと小説となると、構想を練るステップは無視されてしまう。構想のほうが小説の本質だという当たり前の事実を、ひとはわりと忘れがちだ。

 

けれどまあ、あえてそれを忘れてみることにすれば。わたしがこのくだらないいとなみに、結構な労力を浪費していることくらいはわかってもらえるだろう。