キャラクターの手動生成 ④

 もうすこし悪いパターンも想像することができる。

 

 指南記事を書くほうの身になって考えてみよう。かれらはなんらかの要請に応えるため、キャラクターをどうやって魅力的にするのか、ということについて書き始める。それはいわゆる How-to 記事であり、ひとに見せるための記事であり、八割のきれいごとに残り二割の本心を隠し味的に混ぜ込んでつくった文章である。

 

 それは見せるための文章だから、とうぜんさまざまな予防線が張ってある。つまり、こんな方法じゃ無理だろう、という批判を受け付けないための事前策である。そういうものを設けておかなければ読者は筆者を信頼しない。ただ教科書を写しているだけのやる気のない書き手か、そうでなければオレオレの我流を唯一の道だと思い込んで偉そうに語るイタイやつだ、というふうに思われたくなければ、なんらかの回答を用意するしかない。

 

 そして、今回の場合。この方法はダメだという批判に対してもっとも有効な回答とは、それがいかにして可能であるかを説明することではない。それは答えではなく、自分語りと呼ばれる。あるいは、それを可能にするための努力の必要性を説くことではない。それは答えを先送りにする根性論である。

 

 ただしい回答方法は、まったく別の方法を用意することである。

 

 もちろんその別の方法とやらは本心ではない。かりに筆者がその文章の中に、わずかばかりの実感を込めていたとしよう。キャラクターの設定をしっかりと詰めなさい、ということばが本心からのものだという、希望的観測にしたがったとしよう。そうだとしてもなお、別の方法として提示されるものに、ひとかけらの本音が混ざっているとは期待できない。それは文章を文章にするために筆者が即席でひねり出した、粗雑だが必要不可欠な予防線にすぎないのではないか、という推測は、かなりの蓋然性を持って成り立つわけである。

 

 だがわたしたちはそれを信じてしまう。そこに本音があるとすれば、未経験のことを「かもしれない」と推測形にするという判断だけだったのかもしれない。それでも、わざわざそういうものを見ないと人物のひとりも作り出せない、素人かつ弱者であるわたしたちは、その方便を真に受ける。真に受けざるを得ない。

 

 そういうとき、わたしはわたしの判断に、なんのお墨付きも得られていない、ということになる。

 

 だが、それでも書けばいい。書く以外に方法はない。

 

 いまだにわたしは、How-to 記事の使いかたがわからない。それに対して筆者が注いでいる熱量と、偏見にしばられないとする努力量とをわたしは信頼できない。だから、わたしが考えたことがそのままそういう記事に書いてあったところで、それを信頼していいのか分からない。

 

 だったら最初からそんなものは見ず、自分の信じた方法で突き進むしかない。