行事の賞味期限

 年始とよばれる時期がそろそろ終わる。

 

 いや。終わるわけではない。年始には明確なはじまりこそあるが、明確な終わりはないからだ。一月四日は単なる平日ではなく、一月三日にすこし及ばないくらいの年始である。具体的に例を挙げるなら、たとえば「あけましておめでとう」という挨拶は、まだ現役でやっていけるし、神社などは、いまから行っても初詣としてカウントできる。

 

 とはいえいま、年始というものが着実に薄まっていることには間違いがない。そして変な言いかただが、ある種の季節行事を遂行するには、ある程度以上の年始成分のようなものが必要なのだ。それは目に見えない空気のようなものであると同時に、なにかそう珍しくなかったり逆に特別な意志がないとやらなかったりすることを年始という時期に紐づけるために必要不可欠な、接着剤のようなものでもある。

 

 結果として、三日目にしてもう、すでに語るには遅すぎることがらも出始めている。新年の行事には賞味期限があり、それはものによって、一日だったり三日だったり一週間だったりする。

 

 新年の目標を立てる、というのが、そろそろもう遅いもののうちのひとつである。

 

 わたしはここ数年、目標というものを立てていない。

 

 これはべつに、目標をなんにしようかと考えているうちにいつのまにか手遅れになっている、ということではなく、最初から立てる気がない。最初から立てる気がないので、そろそろ目標というもののタイムリミットが迫っているいま、むしろ安心している。今回もまた、そういう敬遠すべき行事を敬遠し続けることができた、ということにだ。

 

 そうしない理由についておそらくここに書いたことはないだろう。世間がなにか特殊な時期であったとしてもそれらしいことは書かない、というのが、この日記を始めて以来無意識に守り続けてきた方針だったはずだからだ。そうやって日常を装うことで、わたしはそういう年中行事などとは関係のない超然とした人間です、ということを、言外にアピールしようとしていたのだ。

 

 とはいえそれは実体に即していない。わたしは一応、年明けを本気で喜んだり伝統的に重要な時期だと考えたりするような人間ではないはずだが、とはいえ年が明けたことに気づかないわけではない。年が明けたことに気づかない生活を送る人間に若干の憧れはあるが、自分がそうなれるとはさすがに思っていない。

 

 ならば、理由を書いても恥ずかしくはない。この日記が年明けを迎えるのは今年で最後なわけだし、せっかくなら書いてみることにしよう。