キャラクターの手動生成 ①

 昨日までの物語に続きはない。すくなくともわたしの頭の中にはないし、わたしが考えていないということは、とりあえずこの世にはない。

 

 どうしてあんなものを書き始めたのかと言えば、深い理由はない。主人公が謎のこだわりを示す人物だということが、とくになにか重大なことを示唆するわけではない。タイトルが鳥居なのは発想の最初が鳥居だったからだし、なぜ鳥居について書こうと思ったのかと言えば、ただわたしが旅先で鳥居を見たからにすぎない。

 

 つまりあの文章は、わたしが鳥居というものに関してなんとなく思っていたことを、実物の鳥居を見たということがきっかけで、ただ書いてみたものに過ぎない。

 

 だからあの物語に意味はない。その中にあなたが勝手に意味を読み取りたいというなら話は別だが、すくなくとも、わたしが意図して伝えようとしたものはなにもない。もっともあの文章が、わたしという存在の性格についてなんの示唆も与えてくれないかと言えば、そんなことはない。あの主人公のレベルで強烈ではないとはいえ、わたしはたしかに、ああいうことが気になるタイプの人間ではあるからだ。

 

 あの手の偏執がどれくらい人口に膾炙した感覚なのか、わたしにはよく分からない。

 

 それを知る必要がないというのがキャラクター作成のいいところだ。入口と同じ場所から出なければ気が済まない、という性癖が一般的なものにせよそうでないにせよ、筆者がそのように書けば、そういう人物が出来上がるのだ。

 

 出来上がった人物を見た読者は、そいつがどの程度の変人であるかということについて議論できる。そんなやつは現実に見たことがない、と言うこともできる。けれどできることはそれまでである。そんなキャラクターは成立しないとか筆者は嘘つきだとか言って、キャラクターの存在性そのものを否定することはできない。キャラクターがどんなに現実離れしていたところで、筆者が描写した時点で、そのキャラクターは成立しているのだ。それを読者が好むかどうかはさておき。

 

 つまり、キャラクターとは完璧に自由なのである。作者が書けば、そのまま無条件で存在できる、という意味で、だ。

 

 とはいえ自由過ぎるのは、それはそれで考えものである。

 

 思考を前にすすめるには、ある程度の制約が必要である。たとえば、なにか面白いことを言え、と言われて面白いことを思いつける人間はなかなかいないだろう。というか、なにを考えればいいのかもわからない。だが大喜利と称してテーマを与えられれば、ある程度は思いつく。思考に筋道がつけられるからだ。