比喩 ➄

 過去に見たことがあったり書かれていたものを読んだりした景色を脳内で思い描くという能力に、わたしは正直、あまり自信を持っていない。

 

 映像の記憶力とでもそれを呼ぼうか。絵を描いたり映画を撮ったりするひとはきっと、その能力が高いのだろう。かれらは画面内のメインとなるひとや物体をしっかりと記述できるのみならず、それを配置して余ったスペースになにを置くべきか、しっかりと分かっている。分かっているから、メインオブジェクトに寂しさを与えなければ邪魔もしない、適切なものを配置することができるのだ。

 

 いっぽうわたしにそんなことはできない。図工の授業以外で絵を描くことはなかったから、正確に言えば、できそうにない。絵や風景を見せられたあとに、では背景になにがありましたか、と言われても、再現できない。そればかりか、描かれていたひとの目は何色でしたか、という核心的であろう質問にすら、全然答えられる気がしない。

 

 というわけでわたしは情景描写が読めない。いや、文字情報としてそれを理解することはできるのだが、それは一向に脳内に像を結ばない。たとえば「栗色の髪と青色の透き通った目をした女性」とかいう感じにはっきりと容姿を指定されたところで、脳内に思い浮かぶのは書かれたとおりの人物ではなく、ただの一般的な女性像にしかならないのだ。

 

 情景が浮かばなくても文章は読める。登場人物の見た目がどんなであったかとか、部屋の明るさがどれくらいで空がどんな感じだったかということは基本的に些末な事項に過ぎず、物語の核心にかかわらないからだ。物語の展開とは論理が分かっていれば追いかけられるものである。そして論理とはかならずしも、具体的なイメージの構築を必要とするほど具体的ではないのだ。

 

 そういうふうに文章を読んでいるのはきっとわたしだけではない、とわたしは思う。もしかするとそうではなく、想像という行為をわたしがとくべつ苦手としているだけなのかもしれないけれど、ここではいったん、違うと仮定する。そう仮定すれば、文章に描かれるべき景色というものにかんして、新しい理解が得られるような気がするからだ。

 

 わたしの仮定では、読者はかならずしも脳内に正確な情景を思い浮かべない。ならば筆者のほうだって、かならずしも文中の景色を、なにか具体的なものを想定して構築する必要はないのではないだろうか。文章の作者が書くのが文章であり、文章の読者が読むのもやはり文章であるという構図は、原理上文章の範囲内だけで完結する。ならばそこに景色がなく、文章だけが存在するという可能性は、すくなくとも、頭ごなしに排除されるべきものではないのではないだろうか。