流れ

 先日、博士論文の予備審査があった。思っていたよりもつつがなく進行したので、とりあえずはほっと胸をなでおろしているところである。

 

 予想はしていたとおり、イントロダクションの文章には物言いがついた。自分の研究が科学の大きな流れの中でどのような場所に位置づけられるのかを明確にせよ、という、これまでも何度か言われたことのある指示である。悪く言えば、各々の研究者が自分の論文を有意義なものであると主張してひとびとに受け入れさせるために築き上げてきた、「研究の流れ」と呼ばれるうず高く積まれた方便のうえに、さらにもうひとつの方便を付け加えよ、という指令である。

 

 これまでにもさんざん書いてきた通りわたしは、それを有意義なことだとは思わない。そうやって頑張ってストーリーを作り上げることとは、あくまで論文を通すための小手先の技術であって、科学の中身とは無関係だと思っている。もちろんそれが論文上のものであってもストーリーはストーリーであり、面白くないよりは面白いほうがいいのは確かではあるのだが、証明や実験をするのではなくそこを面白くすることに熱心になるというのはあくまで、脇道の作業に過ぎないとも思う。

 

 さて。とはいえ世の中はそういうことを重視する。主語が大きすぎるのでより正確に言えば、わたしの審査をする先生はそういうことを重視する。つまりわたしの思想とは無関係にあくまで利害の問題として、とりあえず今回は、ストーリーを頑張れと言う指令に素直に従ったほうがよい、ということに疑いようはないのである。

 

 そして今回はなんだかこれまでとは違い、不思議と自分がその矛盾に耐えられるような気がしているのだ。

 

 きっとこれで最後である、というのは理由のひとつではあるかもしれない。博士さえ取れればすくなくとも、義務としてそのような指示に従わねばならぬことはなくなるわけだ。だがそれは主要な理由ではなく、主要な原因はむしろ、わたしがいまなにを求められているのかということをそれなりに理解しはじめた、あるいは理解し始めてしまったことによるような気がする。

 

 これまでわたしは、自分がなにを言われているのかよく分かっていなかった。「研究の流れの中に自分の研究を位置づける」がどういう行為なのかについて、その有意義無意味はさておき。だからわたしは反発した、なにを求められているかもわからぬままにただ従わされようとしていたから。だが今はすくなくとも、要求がなんなのかを知ってはいる。そしてそれに自分が共感できないと知ったうえで、あくまでさしあたりの義務としてそれに従えばいい、ということを理解している。