比喩 ⑦

 それが適切な文脈であらわれたなら、「内臓をかきむしられるような」と表現される痛みを、わたしたちは問題なく想像することができる。

 

 それは想像として完璧なものではないだろう。なにせその表現が対象としている読者のほとんどは、実際に内臓をかきむしられたことがないからだ。

 

 実際に書かれている通りの体験をしたとき、わたしたちが感じるのは針で刺されたような鋭い痛みなのかもしれないし、あるいは腹の奥底に響くような鈍重なものかもしれない。おそらくは耐えがたいであろう、文字通り想像を絶する痛みの中にはなにかひとつ、実際に経験せねば分からない発見が潜んでいるはずである、と考えるのが妥当である。

 

 けれどわたしたちはそれを知らない。知らないながらに、その比喩を受け入れている。

 

 筆者もまた同じである。内臓をかきむしられるような、とわざわざ記述する筆者だって、実際に内臓をかきむしられたことはない。当たり前の話だが、この事実にはそれなりの示唆が潜んでいるように思われる。

 

 比喩のうちの少なくない割合は、最初から実体験に関連する比喩ではない。今回の例もそのひとつで、この比喩は、実際に内臓をかきむしられたことのない人間によってつくられ、実際に内臓をかきむしられたことのない人間へと伝わってゆく。

 

 そこで起こっているのは、ただ読者が、経験したことのない事項をなんとなく想像で補完しているというだけのことではない。その構図のなかには最初から、経験的事実の出る幕など存在しないのである!

 

 経験したことのない事項に対するイメージをわたしたちは共有している。すくなくともそう信じているから、比喩という表現形態は成り立っている。内臓をかきむしられるような痛みの正体とはあくまで、内臓をかきむしられたことのないもの同士が想像し共有するイメージのことであって、実際にかきむしられたときに感じるらしき痛みではない。

 

 かりにこの世にだれか、重病をしたかあるいは凄惨な拷問に遭ったかなにかで、実際に内臓をかきむしられたことのある人間がいたとしよう。そして運よく快復し、小説を読める程度には人間味を取り戻すことができたとしよう。そしてさらに、過去の凄絶な経験を思い起こすような表現を小説中に見ても平気でいられるほど、精神的にも安定しているとしよう。

 

 そのひとが読んで想像する「内臓をかきむしられるような痛み」は、読者の実体験にもとづく痛みである。この世のほかのだれが想像するよりも、そう表現される痛みに近い痛みである。

 

 けれどそのリアルを知ってしまった人間はむしろ、正確な情報伝達という意味では引けを取ってしまっている。なぜならば、そう表現することで筆者が伝えたかった痛みとは、実際にかきむしられたひとが想像する痛みとはまったく別物であるはずだからだ。