代弁者

 常識的ではないが狂っているわけでもない程度の思想は、いつも代弁されるべき需要がある。常識に違和感を抱くサイレント・マジョリティからの支持を受けた行為、と言えばすこし聞こえが良すぎる気がするが、実際のところ、事実からそう遠く離れた表現ではない。

 

 とはいえそういうことは、インターネットでやると大変なことになる。テレビでやるともっとまずい。簡単に炎上する。その手の場所とは常識的でないものをすべて狂っていると受け取る空間であるがゆえに、常識に外れた思想をさらけ出すには不向きである。

 

 もちろん画面のこちらがわのわたしたちはそのさらけ出された思想をありがたく拝聴して安全圏からうんうんそうだねと頷いているわけで、狂っているとは言えない思想が狂っていると扱われているのを窮屈な思いで見ているわけだが、けっして助け舟を出しはしない。そんなことをしたら、自分もろとも燃え上がってしまうからだ。すくなくとも、そう恐れているからだ。

 

 きわどい思想の代弁には、それよりもう少し優れた場所がある。そう、作品の中である。自分の思想として世に放つのが少々危険な内容でも、一度物語の悪役の口を通せば、それは作者自身の思想としては扱われにくくなるのだ。こうしたかたちで代弁すれば、すくなくとも、世間と筆者との間に一枚のバリアを張ることができる。

 

 こうして見ると、思想を語るうえで物語とは万能のツールのように見える。常識の抜け穴だ、と言ってもよい。あまりに使い古されて形骸化した差別発言などでもない限り、およそたいていのことは登場人物の口を介せば、安全に語ることができるわけだ。暗喩なんて使いこなした日にはもっといい。

 

 だが作者が実際に自分の思想を押し付ける目的で登場人物を動かすと、読者にはたちまち勘づかれてしまう。そしてそうなったが最後、登場人物の思想は作者自身の思想として扱われてしまうわけである。

 

 そんなことでは、わざわざ物語を用意した意味がない。直接インターネットに書いて、炎上でもしたほうがまだマシだ。

 

 そうやって作品もバリアも台無しにするのを、回避する方法はちゃんとある。作中で常識はずれな思想を語るだれかがいたとして、そいつの思想を作品内では認めないことだ。そいつを悪役にしてヒーローがそれに抗うとか、そいつをひねくれものの同僚にして主人公がそいつの発言を軽くあしらうとか、わたしが読んだ作品ではきっと、そういう配慮がされていたように思う。そうすれば、代弁されるべき意見をきちんと代弁しながら、常識を好む読者はまた、常識外れが相応の地位にあることに納得することができる。そしてそういう文章のうちの少なくない割合がきっと、作者がなんらかの思想を開示するために書かれている。