自動化 ⑧

 次は上からだ。これが実現されていればさすがに、世界は完全に自動になったということにしてだれも文句は言わないだろう、というラインを設定しよう。できればそれが「文句を言うひとを全員消滅させる」という方法以外であれば、なおよい。

 

 とりあえず、自由意志はよくない。

 

 突然極論をぶち込んできたな、という感想を抱かれることだろうが、いまは極論を語る場である。だからそれでいい。

 

 極論だが真面目な話をしている。ほかのあらゆるものごとが自動化されていようが、人間が自由意志で自動化されていないことを選ぶ限り、社会の真の自動化が実現されたとは言えない、というのは、完璧に理屈の通った話である。

 

 まったく不合理な話だが、人間は元来合理的な生き物でも何でもない。機械に任せればすべて上手くいくことを自分でやろうとして失敗するのが人間というものだ、というのは、べつに極端な未来世界を想像するまでもなく、現在を観察すればわかることである。

 

 この議論を進めれば、ひとつの答えが見えてくる。こんな世界であれば、世界は自動化されたと認定してもいい、という、必要ではないが十分な定義だ。すなわち、こういうことである。

 

 すべての人間から自由意志が消滅し、それでも社会が回っていくのであれば、それは完璧に自動化された世界である、と。

 

 いいや。これではまだ不十分かもしれない。自由意志の存在を否定してしまえば、これでは現代もまた、完璧な自動化の済んだ社会だということにできてしまうからだ。そして、自由意志を否定したがる人間は、現代にだって大勢いる。

 

 けれども、その手の議論に先はない。冷静になって考えれば、矛盾してもいない。自由意志を否定すれば現代が自動化されているということになる、というのは、しごく当たり前の結論だ。これを矛盾だと言ってくるひとにはただ、ならば現代がユートピアなのですよ、と言ってやればいい。きっと顔を真っ赤にするはずだ。

 

 というわけで、上下のバウンドが出そろった。完全な自動化がなされたとわたしたちが判断する基準は、閾値は、働かなくていい世界と自由意志のない世界のあいだのどこかにある。

 

 それがどこか、という話はする気がない。なんといっても不毛である。その結論はひとそれぞれ、個人の感性によるとしか言いようがないからだ。働かなくていいということと自由意志がないということは違いすぎて、もはや実用と哲学という、違うドメインに属していることがらにさえ見える。だがそれ以上を追い求めると、きっとややこしい話がはじまってしまう。