自動化 ⑨

 前回は、完全に自動化された世界とはどんなものなのかについて、その必要条件と十分条件を与えることを通じて語ってきた。昨日のわたしの言うところによると、つまりそれは、働かなくていい世界と自由意志のない世界のあいだのどこかにあるそうだ。言われるまでもなくそれはそうだ、という基準ではある。しかしこれもまた、自動化の一面しか見ていない。

 

 自動化された世界には二種類ある。そこにひとが生きている世界と、そうではない世界だ。

 

 昨日までのわたしが語っていたのは前者の世界である。その世界で社会機構は、人間の介入を受けこそしないものの、人間のために動いている。働かなくていい世界でも自由意志のない世界でもその点は同じだ。その世界のシステムは現在進行形で、その世界なりに人間の生活を容易にするという、れっきとした役割を果たしている。

 

 人間のいない世界はそうはいかない。そのシステムは、それがもともとどんなものであったとしても、おおもとの存在意義を失っている。

 

 屁理屈を言えば、そういう世界に昨日の議論が当てはまらないわけではない。まず第一に、その世界には人間がいないのだから、人間が働く必要はない。というかむしろその世界は、人間が働かなくても回っていく世界があるということのこれ以上ない証拠となる。働かないどころか、働けないのだから。

 

 自由意志のない世界だって同じだ。人間がいないのだから自由意志もない。むろんこれは機械に自由意志が存在する可能性を排除するものではないが、機械がそういう難しいものを有するかどうかという問題は、世界が自動化されているかどうかという問題とはまったく関係ない。

 

 そして最初に屁理屈だと述べたように、こんなことを言っても意味がない。その世界が見失った目的と同じくらいに、空虚だけがある。

 

 けれどもその、巨大でかつ新品さながらに動き続ける廃墟とは、自動化された社会というものを語るうえで、けっして外すことのできない話題でもある。

 

 人間がいる場合と比べて、こちらの世界の定義は簡単だ。その利益を享受する存在なしに、なんらかの生命保存システムが維持され続けていさえすればいい。

 

 極論を言えば、その複雑怪奇なシステムを人類が有効に利用できなくてもいい。もちろん、滅んだはずの人類が、どこからともなく湧いてきたとして、の話ではあるが。それは昔その場所にいた、極限まで発達した人型生物のニーズに応えるためのシステムである。なにも知らない狩猟採集民族やこの現代の野蛮人に利用できるようなものである必要は、かならずしもない。