自動化 ②

 世の中を成り立たせるインフラのすべてが自動化され、人間が働かなくても生きていける世界など、はたして本当に来るのか。

 

 来た場合に人類はどうするのか、というのがこの件に関する主要な問いのひとつである。一生を遊んで暮らせるのであればひとはそうしてしまうがために、人類の知的技術的能力は次第に衰退していくのだろうか? それともそんな世界にもなにかライフワークのようなものが必要になって、結局ある程度の社会機構は維持されるのだろうか? 飽きるほど繰り返されたこの問答にわたしは答えを出すつもりもなければ、興味もない。

 

 来ないとしてその原因はなにか、というのもまた繰り返された問いである。悲観論者はその前になんらかの原因で人類は滅びると言い、慎重論者は現在には存在しなかった仕事が増えるだけだと言い、経済学的なリアリストたちは、むしろその途中で人類は職を失い、大多数が食べるに困ることになると主張してきた。しかしながらこれらのひとびとはみな、そのような世界を実現するにあたっていちばん本質的な問題から、どうも意図的に目を背けているように見える。

 

 インフラを全部自動でやってくれるという夢のような技術が、いずれ開発可能なものでありうるのか、という点についてだ。

 

 そしてあるいは、人類文明のひとつの終着点がほんとうにその、完全な自動化というシンギュラリティに存在するのか、という点についてだ。

 

 前者の点について、明確な否定をできるひとはなかなかいるまい。人類の技術の進歩はつねにわたしたちの想像の先を行ってきたのだから、かりになにかが到底手の届きそうにない技術だったとして、未来のある時期にそれが実現される可能性を否定することはできない。完全なインフラなどありえないと主張することはだから、人類の可能性を冒涜する行為にほかならない。

 

 けれど、だから人類はできるのだ、と言い張るのもまた、まったく無根拠な決めつけでしかない。できない理由が説得力に欠けることはできるという証明にはなりえないという点にもきっとまた、わたしたちは意識的であるべきだ、とわたしは思う。

 

 後者の点にはより分かりやすい議論の余地がある。たとえば現代、人類科学の一部は宇宙空間への進出を目指しているわけだが、これはなにも、インフラをすべて自動化するためにやっているものではない。それはむしろ人類の野望であり、最初の問いへのひとつの答えにもなるものだ――なにもしなくても生きていけるようになったところで、科学にまだやることはある。

 

 そしてそのような科学はもしかすれば、完全なインフラというユートピアの実現よりもむしろ、優先されるのかもしれない。